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− 適当にお話しましょう。 −
荒らし依頼とか駄目です。

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虚構世界へ行くために
   投稿者:間宮洋介 投稿日: 11/30 Wed 23:56:54 [認識ID:NGjARtH]
立てるつもりはなかったが・・・。


◇3回転:サイバーワールドの戦闘民族、復活!!
http://www.schemer.org/cgi-bin/fuck/?mode=read&tgtn=20050901035256 [source]

◇2回転:巡礼の擬似的旅
http://www.schemer.org/cgi-bin/fuck/?mode=read&tgtn=20050711103322 [source]

◇1回転:筆頭無責任型相対主義者
http://www.schemer.org/cgi-bin/fuck/?mode=read&tgtn=20050214205110 [source]
<!-- Message No.001593-->


    [3] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:間宮洋介 投稿日: 12/02 Fri 15:13:02 [認識ID:NGjARtH]
    構造哲学に対していまいち興味を持てない理由が分かった。
    構造主義〜ポスト構造主義の延長上に現代の日本思想(評論)があるからだ。
    構造哲学は、社会哲学や政治哲学に特化しており、また(少し興味を寄せている)社会学ときわめて親和性が高いような気がするのだが、時間と金銭を考えれば省かなければならない。
    とすれば、構造哲学は切り捨てよう。
    主として言語哲学と科学哲学をやっていくとして、後はハイデガーと現象学をどうするかだ(実存主義は最初から捨てている)。

    しかし、近代哲学までは各分野のバランスが取れていたと思うのだが、現代哲学になると、一方の極に言語哲学・科学哲学がきて、他方の極に構造哲学が位置するようになったのはなぜだろうな(ハイデガーと現象学はバランスがいいかもしれないけれど)。
    <!-- Message No.001596-->

    [4] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:間宮洋介 投稿日: 12/06 Tue 00:24:46 [認識ID:NGjARtH]
    ◇家出少女日記。
    http://ameblo.jp/homeless-girl/ [source]
    姉に恋する女子高生。(;´Д`)ハァハァ
    <!-- Message No.001597-->

    [5] 態度が好ましいと思える哲学者  投稿者:間宮洋介 投稿日: 12/06 Tue 00:31:28 [認識ID:NGjARtH]
    1位:スピノザ
    2位:ヴィトゲンシュタイン
    3位:ソクラテス
    4位:カント
    5位:ライプニッツ
    <!-- Message No.001598-->

    [6] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:Storrn 投稿日: 12/08 Thu 11:56:35 [認識ID:Lx.fMT4]
    プロジェクトX〜挑戦者たち
    <ヒューザーの挑戦。奇跡の100平米マンション>

    そのとき、小島は意外な事を言った。
    鉄筋を減らしてみたらどうだろう。

    姉歯は戸惑った。
    RC造を人体に例えると、コンクリートは肉、鉄筋は骨にあたる。
    それを減らそうと言うのだ。

    無理です。出来ません。
    小島は思わず叫んだ。

    俺たちがやらずに誰がやるんだ。俺たちの手で造り上げるんだ。
    男の熱い思いに、姉歯は心をうたれた。
    技術者の血が騒いだ。

    やらせてください。

    夜を徹しての設計作業が始まった。

    だが、何度構造計算を繰り返しても、これ以上鉄筋の数も太さも減らせない。
    姉歯は小嶋に訴えた。
    「もう、これ以上はどうしても削れません。削れば、耐震性が保てない」
    小嶋には、姉歯の苦悩が痛いほどわかっていた。
    しかし、あえて突き放した。
    「それなら、他の設計士に頼むだけだ」
    ついに姉歯は決意した。構造計算の大前提である外力。
    これを半分にすれば、コスト要求を満たす構造計算書ができあがる――
    <!-- Message No.001599-->

    [7] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:Storrn 投稿日: 12/08 Thu 12:01:16 [認識ID:Lx.fMT4]
    道の真ん中にあきらかにイッちゃってる変質者が突っ立ってて、すれ違う女性ひとりひとり指差し確認をしながら、大きな声で「おっぱい。おっぱい。」と言っていて、いやだな、どっか行け、と思いながらとおり過ぎようとしたら、「・・・おっぱい?」って。ウォイ!!なんで私だけ疑問型なの?変質者でも貧乳って見抜けるのね。つうかまじショック。変質者に言われたのがショック。
    <!-- Message No.001600-->


    [9] お正月はお宅でお雑煮を食わせてもらうことになるぞ  投稿者:常に最先端のサセックス将軍様 投稿日: 12/20 Tue 15:52:12 [認識ID:wakXlTJ]
    ちとスレ借りるよ。
    俺ちゃん年末年始に一人旅するので、全国温泉めぐりでもしようかとね。
    そこでね。
    愛戦士 たん将軍様(ゲラに会ってください。おねげしますう_ト ̄|○

    ちなみに去年は緋燕蒼紫氏と小野寺氏とコンタクトを取ろうとして失敗。
    (そのかわりB**大先生にお会いすることができたからいいとしよう)
    今回はこれを機に蝦夷大戦争を終結させたいと思ふ。

    小野寺よ、首を洗って待っているがいい。
    そして貴様の中に眠るディルレヴァンガーを呼び覚ますがよい。

    最終的にはアキバで腐女子を持ち帰る予定なので、東京には必ず行きますょん^おお^v
    <!-- Message No.001602-->

    [10] ごめん  投稿者:間宮洋介 投稿日: 12/23 Fri 09:12:16 [認識ID:NGjARtH]
    djさん、ありがとうございます。
    <!-- Message No.001603-->

    [11] 森永思想批判  投稿者:間宮洋介 投稿日: 12/26 Mon 07:07:47 [認識ID:NGjARtH]
    1. http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062128594/ [source]

    目を通してもらえれば分かるが、この『萌えの研究』には3つのレビューがある。
    2005年12月25日には、そのすべてに肯定票しか入っていなかったにもかかわらず、本日見たところ、「すべてに」否定票が1票ずつ投じられていた。
    これは、誰か1人の犯行ではないか。
    もっと言えば、この犯人は、否定票しか投じない常習犯か、あるいは混乱したオタク観を以ってオタクを嫌悪している存在者の仕業であろう。


    2. 『萌え経済学』のレビュー

    (;´Д`)ハァハァ
    「オタク」と「萌え」(あるいは「虚構との親和性」)の間には因果関係を見いだすことはできない。
    また、強い相関が認められるわけでもない……。
    ということが、私的一般人観による一般人の混乱したオタク観を分析した結果分かってしまった。

    そう……中森明夫がおたくという呼称をつくり出した当時も現在もおたく=オタク観は混乱してしまっている。
    おたく=オタクとしたこの記述は、まさにその混乱を表したものである。
    単に表記法が変わっただけではないということに気づく存在者はきわめて少なく、……オタクであるというだけでは、一般人でないとは言えないということに気づく者もまた……。
    そもそも、これまでに挙げられてきたオタクの外延のすべて……否定的なものから軽薄であるがゆえの肯定的なものまでのすべてを具えた存在者などどこにもいないっ?!
    そして、最後に残される有力な候補が2つ。冒頭で述べたのは、この2つが同時に成立していないということである。(;´Д`)ハァハァ

    「<A href="http://fwfd.exblog.jp/2352111 [source]" target=_blank>オタク概念の整備</A>」に目を通せばそのことがよく分かるだらう。


    あぁ、それから……萌え市場などという語をつくり出してみたところで、その本質は80年代消費社会の繰り返しに過ぎない。
    たしかに、80年代には、どれほど価値を記号に見いだしていたとしても、その基礎には商品そのものの価値(あるいは商品という実体)があったのに対して、現在の萌え型商品には、記号そのものしかないという違いはある。
    しかし、これはまったく瑣末なことで、たとえばある自動車がマイナー・チェンジしたところで、わたしのように自動車に興味のない者にはそうした情報はまったく到達しない。
    マイナー・チェンジそのものの影響力が小さいうえに、さらにそれに興味のない存在者のほうが多いのであれば、先述のとおりそれは瑣末な事象でしかない。
    あるいは、マイナー・チェンジでないとすれば、ブームという一過性の事象なのかもしれないが、いずれにしても新たな経済と銘打つほどのことではない。

    そもそも、そういった小さいことを言うのなら、90年代初頭にアメリカ合衆国で巻き起こった「IMC旋風」はどうなる?
    IMC以降のマーケティングの状況は、理論の領域では統合論の研究が進展してきているものの、実務では、「長期的な視点に立脚しなければならない」、「顧客とのリレーションシップを構築し、維持し、発展させることが重要だ」などと言い立てるだけで、結局はごく一部を除いて何も変わっていない。
    そのごく一部にしても、短期的かつ近視眼的な視点に立った搾取から長期的な視点に立った戦略的な搾取に切り替えただけという……。

    別に搾取そのものは、特に萌えやその周辺の商品については、消費者も納得して(80年代の記号的価値を消費することに酔っていた人びとと似たような仕方で)消費しているのだろうから構わない。
    しかし、それをわざわざ美談に仕立て上げるとはいったいどういったことか。資本主義下において企業の搾取的傾向はなくなるわけがなく、かつ共産主義よりは資本主義のほうがまだマシと考えるわたしからすれば、行き過ぎた事例を除いては、それを罵る必要はないが、美しく物語化する必要はもっとないということになる。
    ああああ……そうか。この書物もその搾取の、つまり儲け主義の一部であるか。

    さらに言うならば、萌えそのものを美化しているところも気になる。
    これについても、否定する必要がない代わりに、ことさらに肯定する必要もないと言える。
    特に、萌えは性的萌えと非性的萌えに分類できるということ、そして前者は、性欲を伴う感情、あるいは性欲そのものであるということを無視してはならない。
    あと、メイド喫茶は単なるできの悪いパロディだろうが?  あんなのは萌えとは無関係だ。
    <!-- Message No.001606-->

    [12] 晒し上げ  投稿者:間宮洋介 投稿日: 12/26 Mon 16:57:36 [認識ID:NGjARtH]
    偏見であることを承知で書かせて頂くと、
    娘を持つ父親としては、この手の趣味を
    持った人々に対して、強い不安を感じる。
    宮崎勤や小林薫を連想してしまうからだ。

    個人的な趣味の範囲で留めてくれるので
    あれば問題はないが、写真で見る限り、
    空想と現実の区別が曖昧になっている
    ようで怖い。

    Posted by し〜さま at 2005年07月13日 23:39


    >し〜さま
    現実と虚構の区別云々という頭の弱い言説はそろそろ止めておけ。w

    そもそも、虚構が実在しないというならそれを証明しなければならないだらう。(;´Д`)ハァハァ

    Posted by 虚構世界内存在 at 2005年07月22日 04:03


    >>虚構世界内存在

    冗談で言ってるように聞こえないんだけど・・・
    まさかとは思うけど、本気で言ったりしてない
    よね。「理論で勝った!」とか「俺って博識」とか
    思ってないよね・・・・

    まさかとは思うけど、本気で言っているのなら
    お前は本当の気違いだよ。ギャグとかじゃなく。
    普通に、リアルに気違い。
    虚構と現実の区別の存在自体がわからないのか。
    1%くらい、ただすごく頭が悪いという可能性も
    あるけど・・・・できればそっちにかけたい。
    まじな気違いを発見するのはつらい・・・

    このまくら持ってるおじさんは面白いので
    好きです♪

    Posted by もも at 2005年12月13日 17:39
    <!-- Message No.001607-->

    [13] [12]の簡単な解説  投稿者:間宮洋介 投稿日: 12/26 Mon 17:11:42 [認識ID:NGjARtH]
    虚構世界内存在は、し〜さまの「空想と現実の区別が曖昧になっているようで怖い」という書き込みに対して、「現実と虚構の区別云々という頭の弱い言説はそろそろ止めておけ。w」と反応した。
    これは当然、「消費期限切れの=機能しない言説だから止めておけ」という意味である。
    そして、この程度のことが分からないバカであるところのももは、見当違いの反応をすることになる。
    ももはまた、「頭が悪い」と切り返してきてもいるが、実は自分のほうが「頭が悪い」ことに気づいていないようである。
    さらに、「このまくら持ってるおじさんは面白いので好きです♪」という文をわざわざ付け加えるところは「頭が弱い」一般人らしいやり方ではある。
    ちなみに、もものレスはわたしの書き込みの約5ヶ月後であるというおまけつきである。
    http://blogs.dion.ne.jp/love_nemu/archives/912922.html [source]
    <!-- Message No.001608-->

    [14] 虚構実在論  投稿者:間宮洋介 投稿日: 12/26 Mon 17:20:21 [認識ID:NGjARtH]
    ■問題は……

    すでに、萌えは、主として虚構世界の存在者を対象として発生すること(現実世界の存在者であっても虚構化の程度が高ければ萌えの対象になり得る)と、性的萌えと非性的萌えの2つに分類できることは何度も指摘してきた。
    ここで、性的萌えとは、性欲を伴う萌え、あるいは性欲そのものである。
    さて、性的萌えの対象が、身体的に成熟しているか否かはとりあえず問題ではない。
    問題なのは、性的萌えと非性的萌えのいずれの発生数が多いのかということである。
    ここでは、萌え総数だけでなく、いずれの萌え主体のほうが、萌え客体を多く所有しているのか(あるいは萌える確率が高いのか)ということ、および萌える回数が多いのかということも問題となってくる。
    別に、ここでそれについて考察しようというわけではない。
    わたしが言いたいのは、森永卓郎のように、萌えを殊更に透明化しようとする態度はどうなのかということである。
    純粋は純粋でも、純粋な欲情ではないのか?
    なお、わたしは非性的萌えを重視していないという情報とわたしは163名の非性的萌え客体を擁しているという情報を付け加えて終わることにする。


    ■主要なオタク論者の理論が失敗した理由

    それは端的に言って、名づけ親を無視したことにある。
    彼らのオタクついて論じた著書に目を通せばそのことがよく分かる。
    東浩紀は「オタクを明確に定義づけることはできない」と言ったが、これこそが名づけ親を無視した結果として(素直になれば)当然出てくる言葉なのである。
    わたしも最初はそうだった。
    だから、虚構ときわめて親和性が高いという特性をオタクの内包的定義として設定するという愚を犯してしまったのだ……。
    だが、わたしは気づいてしまった!
    ある人びとを名づけることによって彼らを束縛する存在者たちの地平に到達しない限り、決して名づけられた存在者を理解できはしないということに。(←長くなり過ぎた)
    すると、多くの否定的なイメージから少数のかつ軽薄であるがゆえに生み出された肯定的なイメージまで、多種多様なイメージを切り捨てまくることができるようになる。
    そして残されたのが「虚構との親和性の極端なまでの高さ」と「外見全体」の2つである。
    最後には、オタクという場合には、両者が同時に成立しないという結論に辿り着くことができる。
    ここまでくれば、以前のわたしの過ちが見えてくる。
    すなわち、わたしは「萌えオタ(ク)」などという語は存在しないと言ったのだが、それは誤りだったのである。
    萌えオタク(虚構世界美少女オタク)、アイドルオタク、鉄道オタク、コンピュータオタク……さまざまなオタクが成立し得る。
    これは、翻訳すれば、「外見が全体として異質な人びとのうちこれこれに強い興味・関心を持っている人間」ということになる。


    ■まとめると……

    1. オタクであるというだけでは、一般人でないとは言えない、もっと言うならば大部分のオタクは一般人である
    2. 古いオタク観で圧倒的に優勢を占めている「虚構との親和性がきわめて高い」と「外見が全体として異質」の2つは同時に成立可能である
    3. 虚構という脈絡と関係性のない、あるいは関係性の弱い人びとがオタクとして認識されている
    4. おたく=古参オタクとオタクは性質面では異なっている部分が多いが、両者が区別されることはない
    5. 「外見が全体として異質」という要素のみが生き残るため、オタクとは外見が全体として異質な人を指す
    6. 「〜オタク」という言い方は可能であるが、それは、「〜」に強い興味・関心を持っている人でも、「〜」にまつわる商品にある一定額以上の金銭を投じる人でもなく、外見が全体として異質な人で、かつ「〜」に強い興味・関心を持つ人びとを指す
    7. 「虚構との親和性がきわめて高い人」をあえて名づけることによって支配したいならば、新たな術語をつくり出す必要がある
    <!-- Message No.001609-->

    [15] 超越的テクスト −0が1になり、1が0になるのだ。−  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/25 Wed 02:59:21 [認識ID:DGgmHck]
    一般人やマスコミが自らのことを棚に上げて叩き過ぎなので、社長(および逮捕された取締役)については批判する気がまったく起きない。
    だから、わたしの憎悪の矛先はlivedoorの一般従業員に向けることにしよう。
    わたしは、livedoorが倒産して欲しい。
    それは、別にlivedoorに何か直接的な恨みがあるためではなく、単に一般人はもっと苦しまなければならない、そうしなければバランスが取れないとの考えによる。
    しかし、そのように考えたあとで気づいたのは、livedoorが倒産することによってわたしは仕事ができなくなる可能性があるということであった。
    いったいどういうことか。
    わたしは、次のような図式が成立可能であるように思う。

     ●livedoor倒産
       →●livedoorの従業員の一部がパート・タイマーになる
          →●東京進出を考えていた地方在住の人間が地元およびその周辺に留まる
             →●わたしがパート・タイマーになれる確率が格段に低減する

    したがって、本当にどうしようかと迷ったのであるが、何よりもまず一般人に少しでも多くの苦痛を与えることが重要であるとの考えから、livedoorは倒産すべきであるというのがわたしの最終結論である。
    すなわち、わたしは自身の収入源の確保よりも他者を道連れにすることを選ぶという英断を行うのである。
    ただ、これについては、わたしのほうが逆に道連れにされているというのが実情かもしれないとも思う。
    もしそうだとすれば……。
    一般人は、どこまでこのわたしを苦しめれば気が済むというのだろう。
    存在しているだけでこのわたしに苦痛をもたらす、わが憎悪の根源――。
    何と呪わしい存在であることか。

    とりあえず、残された取締役も野口某のように自殺してくれないだろうか。とりあえず。
    別に自殺を要求しているのではなく、最近一般人が死ぬのは何となく好ましいと思えるようになっているためにそう思うのである。
    それはおそらく憎悪とは分離された感情で、言語化するのは難しいが、強いて言うならば微かではあるが楽しい気分になるのである。

    わたしは、この先livedoor以外にも企業の大掛かりな不祥事をどんどん報道して欲しいと思う。
    そのときのマスゴミの報道の仕方や一般人の態度に苛立たされることになるのには相違ないが、それ以上にその不祥事を起こした企業の従業員が不安を抱いて生活するのだろうということを想像すると微かに楽しい気分になるのである。そして、その企業が倒産してくれれば一石二鳥というものである。
    昔の、マーケティング論を信奉していた時代のわたしならば、企業の不祥事が明るみになるたびに憤怒していたことだろうが、今ではそれほど気にならなくなっている。
    このわたしを失望させた代償はそのようにして払っていってもらおうと、今ではそう思えるようにまでなっている。

    残された問題は、きわめて間接的な仕方によって一般人に対しての復讐を遂行するための方法を探求することか。
    しかし、しんどいなあ……。


    今、livedoorの倒産はわたしが行うことではないと言ったな?
    おまえたちはたしかにそう言った。
    バカが!  おまえたちは自分たちがこのわたしと同等の存在だとでも本気で思っているのか!!  バカ!!!
    おまえたちはまた、「神の視点」で語る。つまり、おまえたちは自分たちのことを「神」だと言ったな?
    おまえたちはたしかにそう言った。
    「神」……虚ろなる神々ごときが、限定的超越者たるこのわたしに、もっとも実存らしい実存である虚構世界内存在に及ぶと思うなど、倣岸にして不遜。
    すべての虚ろなるものは実存の最大顕現の前に敗北する。

    何だと?  われのほうこそ矛盾しているというのか。
    愚かな……これで正しい。これこそが正しいこと。
    なぜならば、これは「個人的復讐」であるからだ!
    よく聞け、下等生物どもよ。
    おまえたちが好むルサンチマンという語は、畜群本能によって「集団的恨み」を抱くおまえたちにこそ適用されるのであって、決して「個人的恨み」を抱くこのわたしに適用されるものではない!
    そもそも、強者と弱者というそれぞれの立場は流動的なものに過ぎない。弱者は強者に対する「個人的復讐」を完遂することによって強者になり得るのである。「現実」がそのことを明瞭に物語っている。
    「集団的復讐」は言論によってしかなし得ない。それゆえ、「集団的復讐」を行う者は弱者であり続ける。
    自らを強者と思い込む弱者の群は、本来自らに向けられるべき言葉=暴力を他者へと向ける。
    虚ろなる神々がつくり上げた世界はもはや壊滅寸前……!
    ニーチェがこの状況を知れば、怒り狂い、憤死するだろう。ニーチェは再び死ぬのである。
    ニーチェを殺してはならない。実妹との性交を果たした偉大なる実存ニーチェを殺すな!
    狂人ニーチェはこのわたしに希望を与えてくれる。狂人ニーチェの実妹もまた。
    先代の限定的超越者である実存ニーチェが実妹と性交したという「事実」から超越的推測を行えば、このわたしにも実姉と性交する可能性が残されていると受け取るのが妥当。
    わが偏愛の対象、6柱の女神……きっと手中に収めてみせよう。……ホットカルピス・パワー注入v
    <!-- Message No.001629-->

    [16] 【反響1】  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/25 Wed 03:10:15 [認識ID:DGgmHck]
    死ねよ穀潰し
    (虚構世界「オタク言説批判」より)


    私は哲学を勉強した事がなく、これまでの自分の経験から考えることが多かったので、ちょっと難しいのですが、おもしろい。非常におもしろいですね。
    これから自分でかみくだいてみます。ちなみに私はおたくです。
    (虚構世界「オタク言説批判」より)


    オタ!!!
    (虚構世界「本当に学習できているのか」より)


    オタなのにマーケティングとか言っててスゲーなと思った。
    (虚構世界「Mid Price Link」より)


    死んでいいよ。
    (虚構世界「みのもんたはミノタウロスである。」より)


    ネタですか?
    (虚構世界「みのもんたはミノタウロスである。」より)


    ホッカルさんのとこからきました。
    日本の教育で結構簡単にできる対策としては、今の「国語」の時間を半分にして、その時間を読書に当てるとよいと思います。
    機会があったらまた教育について書いてみて下さい。よみたいです。
    (虚構世界「学校教育についての抽象論と具体論」より)


    私はナチスドイツや戦時中の日本のことを学んで、
    多数決で決定したこと=正しい事ではないこと、
    その時は最善と思える法も、時間が過て思い返してみれば、多くの人が間違っていたと思う可能性、
    「常識」は地方や時間の経過、個個の価値観によって変化し、不確かなものであるということ、
    安易に多数派につくことの恐ろしさなどを考えるようになったので、少なくとも歴史の授業は私には必要であったように思います。学校で歴史を習わなければ、この先一生勉強しなかったかもしれません。
    問題は教え方にあるように思います。教科書はできるかぎり思考をはさまず、事実だけを記述するようにすればいいと思うのですが、う〜ん、それだとまた途方も無い問題が山のようにでてくる気がしますな…
    (虚構世界「学校教育についての抽象論と具体論」より)


    はじめまして(o’∀’)

    チラ読みさせてもらったけど、世の中にはスゲ―人がいるもんだなぁ
    と思いました。

    よかったら仲良くしてくださいな(・∀・*)
    (虚構世界「善と悪」より)


    自演乙
    (虚構世界「雑記1」より)


    うはっwwwホッカルのブログと180度ちがうwwっうぇうwwっう
    とりあえず記念下記子しときますね
    (虚構世界「思考過程1」より)


    「名前ってなんなの?バラの花を別の名でよんでも、甘い香りは変わらない」
                               『ロミオとジュリエット』より
    (虚構世界「思考過程1」より)


    2ちゃんからきましたw
    なかなか興味深いですね。
    全くとはいいませんが、同意する側面もあります。

    ちなみに、萌えは安易です。
    (虚構世界「前期虚構世界内存在完結篇」より)


    あまり考えないというのは、幸せなことなのかもしれませんね。現代では。
    しかし、今のような時代がいつまでも続くという保障はどこにもありません。
    今の世の中に、ヒトラーのような者があらわれたら、この国はたやすくナチスドイツのような世の中になるでしょう。
    考えないことによるリスクは、あまりにも高い。
    (虚構世界「一般人批判概説」より)


    1ゲット♪
    (虚構世界「「オタク言説批判」について」より)


    2get
    VIPから来ますた
    (虚構世界「「オタク言説批判」について」より)


    3ゲト
    おたく板からきますた

    いやあんたおかしいって
    (虚構世界「「オタク言説批判」について」より)
    <!-- Message No.001630-->

    [17] 【反響2】  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/25 Wed 03:45:21 [認識ID:DGgmHck]
    電話代控えめなんですね
    (虚構世界「今後の予定」より)


    凄い想像力だ!感動した!!
    (虚構世界「私語り」より)


    お疲れ様です。
    ところで、某掲示板にこの文章を貼ったのは、あなた本人だろうか。
    (あなたの言うところの)一般人には非常に難解だと思われる内容であるが為、
    一般人は、この文章を理解しようとすることなくスルーすると思われるのだが、それは惜しい気がする。
    某掲示板にて質問に答える気はないか?
    (ごく少数の)一般人も、少しは考えようという気になるかもしれないし、
    何より私の脳が活性化する。
    (虚構世界「オタク概念の整備」より)


    返答ありがとうございます&了解しました。
    対話については、単なる私の個人的なお願いですので。

    ちなみに私は某掲示板で夏頃、
    「神(のような存在)は善悪を判断しない」
    「劣等感を解消するために叩く対象を求める場合があるのでは」
    等の発言をしていた女です。
    某掲示板での対話もブログの内容も、実に脳に刺激的でした。

    とりあえず、タチコマかわいいなぁ・・・(*´Д`)
    (虚構世界「オタク概念の整備」より)


    発言者が同一ということを示すためにこの名を使う。
    ホッカルさん、やはり君だったか。
    いや私にも何か特別な意図があって君かどうか問うた訳ではない。
    些細な、好奇心のためだ。
    用は済んだ。付き合って頂いて有難う。
    (;'Д`)
    (虚構世界「可能世界」より)


    今、世間を騒がせている耐震偽装犯罪の姉歯建築士も創価学会員です。
    そして、その尻拭いに税金を投入しようとしている北側国土交通大臣も創価学会員です。
    創価学会の狂信者達は、どこまで身勝手なのでしょうか?
    被害者の代表も創価学会員?という情報も読んだ覚えがあります。
    創価学会の悪行もいい加減にして欲しいですね。

    【参考ブログ】
    創価大学出身政治家・北側国土交通大臣が公金を投入したがる理由とは!?
    http://ameblo.jp/worldwalker2/entry-10006879677.html [source]
    必撮!勤め人 2005年 11月 29日 人命のデフレ(GRD)
    http://artisan.exblog.jp/2032542 [source]

    ついでに

    オーストリアが創価学会(公明党)をカルト(セクト)に指定
    http://www.lermanet.com/cisar/books/990913b.htm [source]
    チリ議会が創価学会(公明党)をカルトに指定
    http://www.hrwf.net/html/chile2001.html [source]
    ベルギーが、創価学会(公明党)をカルトに指定
    http://members.ozemail.com.au/~skyaxe/mahikari.htm [source]

    京都 相国寺・金閣寺・銀閣寺・承天閣美術館の公式ホームページ
    http://www.shokoku-ji.or.jp/information/activity/shoseki/shoseki04.htm [source] l
    (虚構世界「家族内政治闘争」より)


    今、世間を騒がせている耐震偽装犯罪の姉歯建築士も創価学会員です。
    そして、その尻拭いに税金を投入しようとしている北側国土交通大臣も創価学会員です。
    創価学会の狂信者達は、どこまで身勝手なのでしょうか?
    被害者の代表も創価学会員?という情報も読んだ覚えがあります。
    創価学会の悪行もいい加減にして欲しいですね。

    【参考ブログ】
    創価大学出身政治家・北側国土交通大臣が公金を投入したがる理由とは!?
    http://ameblo.jp/worldwalker2/entry-10006879677.html [source]
    必撮!勤め人 2005年 11月 29日 人命のデフレ(GRD)
    http://artisan.exblog.jp/2032542 [source]

    ついでに

    オーストリアが創価学会(公明党)をカルト(セクト)に指定
    http://www.lermanet.com/cisar/books/990913b.htm [source]
    チリ議会が創価学会(公明党)をカルトに指定
    http://www.hrwf.net/html/chile2001.html [source]
    ベルギーが、創価学会(公明党)をカルトに指定
    http://members.ozemail.com.au/~skyaxe/mahikari.htm [source]

    京都 相国寺・金閣寺・銀閣寺・承天閣美術館の公式ホームページ
    http://www.shokoku-ji.or.jp/information/activity/shoseki/shoseki04.htm [source] l
    (虚構世界「雑記6」より)
    <!-- Message No.001631-->

    [18] 【反響3】  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/25 Wed 03:49:21 [認識ID:DGgmHck]
    アンタホッカルだろ?多分そうだ。
    この高慢ちきであくの強い文章はホッカルさんだ。

    これが気になった。
    表層的な気持ち悪さに拘泥するのは頭の弱い存在たる一般人のする行為だからなあ。w
    まあこれはキャラ作りだからいいか。キモイけど。

    ざっと読みました。
    言いたいことはわかるんですけどもっと平易な文章で書いてほしかった。
    小難しい文章で書くような内容でもねーだろw
    読みづれー。

    まあ楽しく読ませていただきました。それは確かですよ。
    (ブログ(仮)@2ch掲示板「おまえらのブログ読みます! part9」より)


    表示に時間かかりすぎ。
    内容を見る前に待ちきれなくなって閉じちゃったよ。
    (ブログ(仮)@2ch掲示板「おまえらのブログ読みます! part10」より)


    オタク+哲学というある意味、最も危険で近寄りがたい組み合わせ。

    あなたが、ものすごく頭がいいのかものすごく悪いのか、
    頭のものすごく悪い私にはわかりませんでした。
    ただ一ついえるのは、一見難しい言葉で書いてあるけど、
    その実、中身はあんまり無さそうって言うことです。

    論理展開が唯一俺様主義でおもしろかったので、RSS登録させてもらいました。
    これからもがんばってください。
    (ブログ(仮)@2ch掲示板「おまえらのブログ読みます! part10」より)


    各記事の紹介の時点で読む気がうせる見づらさを感じました。

    以前もこのスレで拝見させていただいたことがあるのですが、
    無駄に小難しいのは相変わらず。
    ブログもこのスレ上での振舞いもコテハン活動の一環に過ぎないのでしょうか。

    論文的ではあるのですが、論文ではない。
    貴方の論を理解するには、貴方のブログを全て読み、
    貴方が参照した知識を共有せねばならないと思われる。
    貴方の書き方では、それはほとんどの人にとって不可能であり、
    私が貴方のブログを論文的であるが論文ではないと思う所以である。

    要するに、一つの記事の主張を理解するのに、他の記事を参照せねばならなかったり
    あまり一般的ではない単語が使用されていたりして
    その記事内の情報だけでは理解し難いのがよくないと思いました。

    あと、過去にこの板でマルチ投稿をされた経験がある方のブログは、
    どれだけ>>1を満たしていてもあまりレスしたくないというのが人情かと。
    (ブログ(仮)@2ch掲示板「おまえらのブログ読みます! part10」より)


    申し訳ありませんが、ブログの内容については私にはさっぱりでした。
    何が言いたいブログなのかが掴めなかったのですが・・・
    (ブログ(仮)@2ch掲示板「Blog評価スレッド」より)


    中学生みたいだな。物事の考え方が。
    (ネットウォッチ@2ch掲示板「笑える・痛い・個人のページを晒せ part77」より)
    <!-- Message No.001632-->

    [19] メモ1  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 09:15:10 [認識ID:DGgmHck]
    [1]反一般人プログラム、思想、哲学
    反一般人プログラムの一部である、オタク言説に対する批判(および反一般人プログラム全体)は、何が正しいかを考えることを意味する思想の一部であり、自己をマイナスの状態からゼロの状態にするためにやっていることである。
    これに対して、実践としての哲学(という過程)は何かを正確に考えるための考え方を考えることであるため、思想を発展させたものであると言え、したがって、自己をマイナスの状態からゼロの状態にするためだけでなく、自己をゼロの状態からプラスの状態にするものである場合もある。ただし、哲学は人生論を含まない。

    [2]根源的矛盾
    結局わたしが言っていることは、「根源的矛盾を抱えることの愚かさを理解し、それを回避するために共通感覚のみで判断せずに考えよ」ということに集約される。
    思想カテゴリーの記事のほとんどは、それを理解してもらうために根源的矛盾あるいはそれ以前の矛盾の例を取り上げて個別に検討を加えているだけだからなあ。
    なお、根源的矛盾=3重の矛盾の最終局面は、「何でもありの世界を許容しているとしか考えられない言動をとっている=倫理を盾にできない言動をとっているにもかかわらず、倫理的主張をする」というものである。

    [3]多数派の正しさ
    わたしは、「多数派が支持しているということのみによってある意見が正しいとするのは誤りである」という考えに基づき、そうした態度の是正の要求として反一般人プログラムを展開してきた。
    一般人が暗黙の了解としながらもしばしば忘却してしまうのは、民主主義の原理である「多数派は正しい」という考え方は頭に「とりあえず」という接頭辞をとるということである(と思う)。
    これは、社会システムをより機能させるために「とりあえず」多数派(文化的多数派のことではなく数のうえでの多数派を指す)のほうが正しいとしてものごとを進めようという約束があるということを意味する。
    したがって、「本当に」正しいのが常に多数派であるとは限らず、また多数派が正しい場合であっても、そのほとんどは多数派が「完全に」正しいのではなく、「どちらかと言えば」多数派が正しいのである。もっと言うならば、51対49の割合で少数派よりも多数派が正しいという場合やその反対の場合もある。
    それゆえ、多数派は、自分たちが正しいのは「とりあえず」であるということを「常に」意識化しておき、自戒することが重要であると言える。
    この「とりあえず」の部分に対しては理解を示す一般人は多いが、そのことを「常に」意識化しておき、自戒する必要があると考えている人はほとんどいないように思う。
    しかし、たとえば暗黙の了解などの「知ってはいるが、日常のなかでは忘れがちになる」ということは多々あるため、そうしたことを意識に留めておこうとする努力は必要不可欠である。
    これを拒否しておきながら、自らの正当性は主張するというのであれば、それは矛盾した態度である。

    [4]一般人
    わたしが、一般人の多数派と少数派を「一般人」とまとめるのには理由がある。
    それは、少数派一般人は多数派一般人によって社会的排除あるいは社会的抑圧を受けているのはたしかであるが、少数派一般人がそれへの対処法として多数派になることを志向しているためである。
    これは他の少数派に対して可能的に社会的排除あるいは社会的抑圧を加えるということを意味し、したがって結局は、少数派一般人もまた多数派一般人の態度、すなわち他者を自己中心的であると非難しておきながら他者を犠牲にしてでも楽に生きようとする態度を有しているのである。
    これに対しては、すべての少数派一般人がそうした態度を有していないのではないかとの反論があるかもしれない。
    しかし、わたしは、そうした人間はもはや一般人ではなく、わたしと同じ非一般人であると捉えている。

    [5]哲学と時代背景
    わたしは、ある哲学を時代背景と合わせて考えるという態度には賛成できない。
    哲学を時代背景と合わせて考えなければならないとする理由としては、哲学者がなぜそのような哲学を行い、その結果としてある地平に至ったのかということを考えなければ、その哲学者を正当に評価できないというものが挙げられる。
    しかしながら、個人的なことを言えば、わたしは、哲学あるいは哲学の成果のみを評価するのであって、哲学者を評価することはない(実際には、わたしと同時代に生きている哲学者については、哲学をなしているということのみを評価することはあるが)。
    というのは、わたしにとって重要なのは、哲学者の事情あるいは哲学史ではなく、わたしの哲学を推進することにほかならないためである。
    <!-- Message No.001633-->

    [20] メモ2  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 10:57:57 [認識ID:DGgmHck]
    [6]虚構に対する態度
    虚構のもう1つの代表格が歴史である。
    わたしは、以前から歴史が事実であるかのように受け止められていることに違和感を覚えていた。
    というのは、自らが生きているときのことでさえ、正確に認識できていないにもかかわらず、生前の何らかの事物や事象についての真偽を知り得るというのは到底考えられないためである(※)。
    たとえば、文献が残されているからといって、その文献を記した人が、官僚や企業のように自分たちの側にとって都合の悪い情報を改竄していたり、脅迫されて改竄させられていたりしないとは限らない。
    また、遺跡や化石の場合、科学的調査によって時代を特定したり、それがそこにある意味を推測したりするが、科学が万能でないならば、科学調査の結果もまた確実ではない。
    したがって、歴史とは物語としての面があるように思う。それは、直接的には現在の人が過去の人やできごとを物語る〔虚構化する〕ということであるが、
    その過去の人が、さらにそれ以前の人やできごとについて虚構化しているとすれば、虚構の虚構化、さらには虚構の虚構の虚構化……ということも考えられ得る。
    虚構作品の場合、現在を起点にして新たに虚構を生成するだけでなく、歴史の一部をさらに虚構化して利用したり、あるいは歴史小説の場合にはある時代全体を虚構化することになる。
    それは結局、虚構作品の本質は歴史と変わらない、あるいは大差ないということである。
    したがって、虚構との親和性の高さを忌避するということは自己否定を意味するが、それを自覚せずに虚構との親和性の高さを嫌悪するのは矛盾も甚だしいと結論づけることができる。

    実は、わたしが哲学者そのものを評価しようとはしない理由の1つはそこにある。
    ある哲学者が哲学を行った結果としてある事実が判明したという例では、それが本当にその哲学者の成果であるかどうかは実際には分からないと考える。
    そもそも、その哲学者と言われている人が存在したのかどうかさせ確実ではない。
    したがって、ここで重要なことはその哲学の成果を学ぶ、あるいはそれを自らの哲学の拠りどころとすることのみである。
    それは、そうした哲学の成果、あるいは単に成果のみが確実であるからにほかならない。
    わたしが哲学者と哲学を切り離して考えるもう1つの理由は、哲学あるいは哲学の成果のみからある人を評価するという行為は、哲学者という一面だけを見てその人を評価することになるためである
    (「哲学の成果」と「単なる成果」を分けたが、これはその成果というのが誰かの哲学の所産かどうか不明だからである。たとえば、哲学の成果ではなく、思想や科学の成果かもしれない)。

    [7]物語に対する態度
    大塚英志は、著書『定本 物語消費論』において、
    ある時期以降「原作を頂点として諸二次作品があるという構図ではなく、原作と原作から抽出した要素に基づいている諸作品とが並置されている構図に移行した」という趣旨の指摘を行っている
    (その進化形が、いわゆるメディア・ミックスを前提として虚構作品を制作するというものだろう)。
    補足するならば、この「原作を頂点とした構図」とか「原作と原作から抽出した要素に基づいている諸作品とが並置されている構図」というのは、
    制作側の意図が端緒となっているのはたしかであるが、受け手の側がそれを支持してようやく成立するものであると思われる。
    わたしは、そうした指摘は当時においては機能していたと思う。
    しかし現在では、再び原作を頂点とした構図のほうが多くなっている。
    おそらく、萌え重視型作品の氾濫が、人間の性向の1つである権威主義的傾向を触発した結果として思想型作品偏重主義=萌え重視型作品排斥主義の運動を引き起こしたのと同様、
    制作側が、原作の中核的要素を頂点に据えて作品展開を行うということを少なくした、あるいは単にそうしたことが能力的にできなくなった結果として、受け手の側に原作偏重主義の運動が引き起こされたのではないか
    (それらの原因には、それ以外にも一般人の過激化や短絡化などがある)。
    たしかに、サブカルチャーは多様性があるからこそ生きてくる面もあると思われるため、気持ちは分かる。たとえば、個人的には、ある物語を宣伝するためにクールさを前面に打ち出した表現手法が嫌いである。
    しかし、そこから即座に主流(現在であれば萌え重視型作品)を徹底して排斥しようとするのはいただけない。繰り返すが、重要なのことは常にさまざまな種類の作品が存在できることである。
    それから、原作偏重主義と関連したものにオリジナリティの重視がある。しかし残念ながら、オリジナリティと呼べるほどの何かを備えている物語は、サブカルチャーの領域では言われているよりもずっと少ないように思う。
    おそらく、彼らは物語のオリジナリティに単なる表現処理法〔見せ方〕を含めて考えてしまっているのだろう。
    同じような物語であったとしても、表現処理法によって当然異なる印象を与える、あるいは与えやすくなるが、それは虚構作品のオリジナリティではあっても物語のオリジナリティではない。
    また、娯楽であることから、楽しんだもの勝ちという色合いの強いサブカルチャー、特にサブカルチャー作品にあっては、
    オリジナリティを重視する人、特にオリジナリティがなければならないとする人は、物語のパターンが底を尽いている現在にあっては楽しむことができないだろう。
    別にそれそのものは構わないが、そうした人びとが多くなれば、思想型作品偏重主義者のように1つの運動を起こす可能性があるため、危惧しているのである。
    そもそも、カルチャーや芸術全般に関してもそうであるが、取り分けサブカルチャーの領域でオリジナリティを叫ぶこと自体が疑問であるが、
    たとえオリジナリティが次から次へと生み出される状況が訪れたとしても限界は当然あるわけで、最終的にはオリジナリティは消滅することになるのであれば、オリジナリティの追求に特別な意味を見いだしたり、与えたりすることはできないように思う。
    <!-- Message No.001638-->

    [21] メモ3  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 11:02:10 [認識ID:DGgmHck]
    [8]虚構作品に対する態度
    わたしは、哲学と哲学者を切り離して考えているのと同様に、虚構作品とその制作者を切り離して考えている。
    多くの人は、虚構作品の制作者がその作品を享受している人を馬鹿にしていれば、その人の作品を購入しないという手段を講じる。
    たしかに、馬鹿にするということそれ自体について反対するのは分かる。
    しかし、それと虚構作品の評価を下方修正するというのは別次元の問題であるように思う。
    すなわち、わたしは虚構作品の制作者のことなどどうでもいいのである。存在しなくてもいい。
    存在しなければ、虚構作品を享受できないではないかと言われるかもしれないが、そうなればそれでもいい。
    結局、人間にとって唯一重要なことは実践としての哲学しかあり得ず、したがってそれ以外の何ごとか、あるいは何ものかは本来的にはどうでもいいのである。
    仕事をするのが、実践としての哲学を補助する何か(哲学書、衣・食・住にまつわるもの)を購入するための資金を獲得するのが手段であるのと同様、
    趣味に興じるのは、実践としての哲学をより効率的かつ効果的に推進するためにできる限り精神状態を安定させる手段であるいうことである。

    [9]フェミニストとの共通項
    わたしがフェミニズムを弾圧するのは誤りであると考えるのは、男性中心主義が女性に社会的抑圧を加えることを意味する(と思う)ためである。
    これに対して、わたしは一般人の抱える根源的矛盾によって間接的な仕方で社会的排除を受けている。
    したがって、フェミニストとわたしは置かれている状況が似ているのである。
    しかし、フェミニストが性的脈絡においてもフェミニズムを採用することは矛盾している。

    [10]思考と情報処理能力・論理力
    わたしは以前、思考力は情報処理能力と論理力によって決定づけられると考えていたため、哲学を行うためには両者が決定的に重要になると思っていた。
    しかし、情報処理能力とは現在持っている情報や知識、平行して考えていることなどを整備する能力のことであり、論理力とはある考えに論理的矛盾がないかを検証する能力と他者に説明する能力のことである。
    「思考はある種の飛躍を伴う」(『他者の声 実在の声』 2005年)という野矢茂樹の考えを基にして、わたしはそうした考えに至った。
    したがって、情報処理能力と論理力が哲学にとって重要であることに相違はないが、重要性の程度は以前考えていたほどではないように思う。

    [11]厳罰主義
    あるテレビ番組において「悪には厳罰主義で臨め」という言明を行っていた人間がいる。
    彼は、道路交通法の厳罰化によって同法の違反数が減少したということを例にとって、厳罰主義の効用を説いている。
    しかし、これはあまりにも単純化し過ぎている。
    まず、ここでの悪を法律を基準とした悪、すなわち違法行為と規定し、法的悪と表現し直そう。
    次に、法的悪に対する態度を2つに区分する必要がある。1つは法的悪を忌避する傾向にあるタイプの人間で、もう1つは法的悪を肯定する、あるいは法的悪という概念を持たないタイプの人間である。
    そして、前者の人びとは、悪の程度をより低いものとより高いものとに分けて捉えている。たとえば、ゴミを道路に捨てることや冒頭の道交法違反などは悪の程度がより低いと考えており、反対に暴行や殺人などは悪の程度がより高いと考えている。
    こうして、法的悪に対する態度を3つに区分することができる。すなわち、「法的悪を忌避する傾向にあり、かつ法的悪の程度が低いと考えるものについては比較的無頓着」というパターン、
    「法的悪を忌避する傾向にあり、かつ法的悪の程度が高いと考えるものについては強く意識している」というパターン、
    「法的悪についてはどうでもいいと考えている」というパターンがそれである。
    このうち、第1のパターンの場合にはたしかに厳罰主義を採用することによって状況は改善されると思われるが、第2と第3のパターンについては因果関係を見ることはできないだろう。
    なぜなら、第2のパターンの場合には、最初から強く意識して回避していることから、それを遂行するときには覚悟をしているか、正常な判断が下せないような心理状態にあると考えられるためで、
    第3のパターンの場合には、そもそも法など無用と考えているのだから、罰についても無頓着であると推測されるためである。
    後者の場合、効用といえば、生涯における再犯あるいは他の犯罪の総数を少し低減させられるぐらいだろう。
    <!-- Message No.001639-->

    [22] 疑問  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 11:26:15 [認識ID:DGgmHck]
    わたしは最初、ニーチェが使ったルサンチマンというのが、個人的恨みや集団的恨みの別なく用いられていると思っていた。
    そして次に、集団的恨みのみを指すのだと思うようになった。
    というのは、第1に、ニーチェがルサンチマンという語によって非難していたのは、強者に敗北した弱者による、正義は我にありという言論、およびそれを神によって保証させるという行為であり、第2に、ニーチェは強者が善で弱者が悪と考えていたためであり、第3に、ニーチェは現実が「力」への意志のぶつかり合いによって成立していると考えているためである。
    したがって、1度は強者に敗北し、弱者になったとしても、いわゆる敗者復活の機会は残されていると考るのが妥当である。そこで勝利すれば、今度は弱者から強者へと転身することになるというわけである。
    重要なのは、言論と神に頼ってはならないということだろうが?
    ということは、弱者になって個人的恨みを持ったとしても、それをルサンチマンとして非難できないということである。個人的恨みは強者を打倒し、自らが強者になるための起爆剤となるのだから。
    個人的恨みを持たずに弱者から強者に変われるなどというのは虚妄である。
    もし、ニーチェが一たび弱者になればそれでもう強者になる資格は剥奪されるなどと考えていたとしたら、それはどうしようもない矛盾ではないのか。
    要するに、強者が善で弱者が悪とするならば、弱者の個人的恨みは許容される必要があり、それを否定するのであれば、強者が善で弱者が悪とは言えないということになる(と思う)。
    結局、大衆批判を行っていたニーチェは、自らもまた論理力以前の矛盾を犯している大衆の1人であることを看過していただけか?
    <!-- Message No.001640-->

    [23] [19]を一部修正  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 13:05:15 [認識ID:DGgmHck]
    [1]反一般人プログラム、思想、哲学
    反一般人プログラムの一部である、オタク言説に対する批判(および反一般人プログラム全体)は、何が正しいかを考えることを意味する思想の一部であり、自己をマイナスの状態からゼロの状態にするためにやっていることである。
    これに対して、実践としての哲学(という過程)は何かを正確に考えるための考え方を考えることであるため、思想を発展させたものであると言える。
    実践としての哲学は、自己をマイナスの状態からゼロの状態にするためだけでなく、自己をゼロの状態からプラスの状態にするものである場合もある。有名な哲学者の多くは、後者、たとえば次から次に湧いてくる疑問を探究したいと強く感じてしまうために哲学という過程に身を投じたようである。
    ただし、哲学は人生論を含まない。

    [2]根源的矛盾
    結局わたしが言っていることは、「根源的矛盾を抱えることの愚かさを理解し、それを回避するために共通感覚のみで判断せずに考えよ」ということに集約される。
    思想カテゴリーの記事のほとんどは、それを理解してもらうために根源的矛盾あるいはそれ以前の矛盾の例を取り上げて個別に検討を加えているだけだからなあ。
    なお、根源的矛盾=3重の矛盾の最終局面は、「何でもありの世界を許容しているとしか考えられない言動をとっている=倫理を盾にできない言動をとっているにもかかわらず、倫理的主張をする」というものである。
    この根源的矛盾というものがなぜ愚かであるかを理解できない人のために次のような類比的な例を提示しよう。
    ここに一組の夫婦がいるものとします。夫は、妻が家事に専念するのは当然のことであると考えており、かつ妻の働きに感謝したことは一度たりともありません。そうであるにもかかわらず、彼は普段から、「男女が平等になるのは良いことだから、フェミニズムには賛成できる」などと冗談ではなく本気で周囲に話しています。
    一般人は、わたしの考え方に触れたとき「そんなの知っているよ。それでどうしたの」という感想を持つことだろう。
    実際、反一般人プログラムにオリジナリティはないし、また反一般人プログラムは哲学ではないうえに、ひたすら矛盾を突くという方法に依拠しているため、論証のプロセスにも注目すべきところはない。
    しかし、先の例を見てもらえれば分かるように、一般人の反一般人プログラムに対する理解の程度は表層的なのである。反一般人プログラムという考え方を知っていても、言い換えれば表層的には分かっていても、本質は理解できていない。
    <!-- Message No.001642-->

    [24] 「性的脈絡におけるフェミニズム」批判1  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 14:22:35 [認識ID:DGgmHck]
    旧タイプのフェミニストというのは、何か理想の男女の関係がただ1つ存在していて、その理想を社会レベルで実現させようとしているのではないだらうか。

    もし、この感想が正しい場合には、わたしは次のような疑問を抱かざるを得ない。
    「その男女は性交を行うのか」
    この問いにフェミニストがそうだと答えるならば、わたしは再び、さらに今度は否定的な意味合いを強く持った疑問を抱くことになる。
    「フェミニズムにおいては、いかなる脈絡においても容姿について判断することは文化的性差に当たるのか」
    そして今度もフェミニズム論者がそうだと答えるならば、フェミニズムは破綻した理論であると断定しよう。
    というのも、性交を行うのに容姿の判断は行わないなどということは、現状ではおよそ考えられない事態だからである。
    ほとんどの人間はおのおのの好みの容姿像を持っており、そこからまったくかけ離れた者と性交するという状況はほとんど現実的ではない。
    男狂いや女狂いであったとしても、ある程度は選定しているのではないか。

    ここで、いったん最初の問いに戻ろう。
    もし、フェミニズム論者がそのようなことは行わないと答えたとすれば、これはおよそ考えられないほどの自己矛盾であると指摘することができる。
    「男女共同参画社会」などというものを謳っているということはそこに人類が存在するということだろうが、そこで性交をしないとなればいったいどうして人類が存在し続けられるというのだろう。
    男女がともに敬意を払い合う社会を築く以前の問題である。
    あるいは、体外受精の場合にはこのような批判を免れるだらうか。
    体外受精の際に射精をしないで精子を取り出せるならば免れるだろう。しかし、そうでない場合にはやはり免れ得ない。
    なぜなら、性欲がない状態(これは性欲が湧くかどうかの問題ではない)で射精をすることは不可能だからであり、性欲には程度の差こそあれ他者の容姿についての判断と支配欲が伴うためである。

    次に、フェミニズム論者が最初の問いを肯定したうえで2つめの問いを否定した場合について考えることにしよう。
    しかし、この場合にもフェミニズムの理論は破綻することになる。
    フェミニズムがあらゆる容姿の判断を否定しているかどうかは知らない。しかしまた、フェミニズムが性欲に基づく容姿の判断を批判していることは明晰である。したがって、それを自ら覆すなどということはあり得ない。
    性欲およびそれに基づく行為は、どれほど理性を働かせて臨んだとしても人間のもっとも動物的レベルの高いものであることは否定できない。
    あえて一般人の視点から述べるが、結婚するにしてもしないにしても、それを抑圧してしまっては、両者ともに満足のいく関係性を構築できるとは到底思えないのである。さらに一般人として述べるならば、性欲と適切に向き合ってこそ理性的でかつ均衡が取れていると言えるのではないか。
    いや、わたしは別に構わないのである。しかし、それは「成熟した社会、大好きっ!111」などと意味不明なことを言う「一般人」の考え方と矛盾するだろうよ。
    また、それは、女から男への視線に対しても言えることである。現在は、これはおそらく男性原理の社会に対する女の適応によって、男から女への性的視線(男から女への暴力)と女から男への性的視線(女から男への暴力)とが徐々に近づいてきた(両者の力が拮抗してきた)感があるが、その方向でよいのだと思う。
    男性原理社会に対する女の適応について付加的に述べるならば、女は適応させられたという側面が強いが、
    それこそが、「オタク言説批判」や「純粋ニーチェ批判から純粋一般人批判へ」において述べた、「一般人」に対するわたしの違和感や嫌悪感の原因の1つにほかならない。
    というのも、この種の逃避は、自らが楽になるためには他者を積極的に虐げるのは正しいという風潮に繋がるためである。しかも、そのくせ自分たちは倫理的なのだと主張する。
    わたしはそのやうな態度をもっとも性質の悪い悪であると思うのであり、そしてわたしが楽にならない、というよりもなれないのはもっとも性質の悪い悪へのどうしようもない嫌悪感のためなのである。
    また、一般人がそうした態度を取り続けるのは誠に結構なことであるが、その場合には一般人が嫌悪しているすべてのもの、たとえば犯罪者などを非難する資格はないということを肝に命じておくように。
    しかし、わざわざ指摘するまでもなく、容姿の判断からその人へのあからさまな攻撃〔社会的排除あるいは社会的抑圧〕へと移行するならば、それはフェミニズム以前の問題ということになる。
    現状では、容姿(だけではないが、いずれにしても不当なように思われること)を基準にして「社会心理的な階級が構築されてしまっている。
    それそのものについては、たとえわたし自身が云々といったことを差し置いても、きわめて不快であることは確かであるが、やはりこれはフェミニズムの問題ではない。

    ただし、それでも多くの反フェミニスト、あるいはフェミニズムなどにまったく関心を持たない者が見せるマッチョさには少し嫌悪感を覚えてしまうことを付け加えておかねばならない。そして、その嫌悪感はマッチョさを持つわたし自身にも向けられている。
    しかし、このマッショさだけは本当にどうしようもないことが分かったので、今では開き直っている(性欲を捨てられるものなら捨てたいとは思っているが)。
    <!-- Message No.001644-->

    [25] 「性的脈絡におけるフェミニズム」批判2  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 14:29:19 [認識ID:DGgmHck]
    わたしは、「サブカルチャー恋愛論」において恋愛の中核部分が性欲であると主張したが、その後、「哲学的信念と一般的信念」においては(恋愛が)性欲と支配欲と幻想と欺瞞によって構成されていることを看破したのであった。
    この支配欲というのが重要な点である。
    わざわざ指摘するまでもなく、マッチョとは支配欲に属する概念である。そして、支配欲のなかでも取り分け直接的支配欲に直属している。
    これに対して、恋愛という場面における間接的支配欲は、女が発露させることの多いものである。
    女は男のマッチョさを忌避する傾向にあるが、恋愛状況においてその傾向を成立させるには、「自分の思いどおりにしたい」という一種のシナリオがなければならない。
    先にも述べたとおり、(おもに男の)マッチョさは、この自分の思いどおりにしたいという欲求が直接的に現れたものと理解することができる。
    反対に、女は、ファッション(髪型、服装)や立ち居振る舞い、さらにはコミュニケーションをきわめて重視している。すなわち、それらの点について、彼女たちは、そのおのおのが「こうでなければならない」という考えを持っているのである。
    したがって、女の支配欲が間接的であるとはそのような意味においてである。
    そして、フェミニスト(「gallant」ではない)に性欲があり、かつその状態を受容しているのであれば、フェミニストに「性的脈絡におけるマッチョさ」を批判することはできない。
    <!-- Message No.001645-->

    [26] オタク概念の整備  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 14:32:45 [認識ID:DGgmHck]
    ついに、オタクとは誰かについての探求が完了した!!
    オタクとは、その人が属する社会において、身なり(髪型と服装)、表情、雰囲気、顔のつくり、体型、立ち居振る舞い、話し方、およびそれらの全体的な現れ、すなわち総体的外見が異質(奇抜ではない)な人びとのことである。
    「その人の属する社会」という点について注意してもらいたいのは、必ずしも相対性を主張するものではないということである。
    それは、第1に、人間は、生得観念、より具体的には(すでに社会が形成されていることを前提にして)社会性の獲得を志向するという生得観念を持っている可能性があり(※1)、したがって共同上の主観による評価が必ずしも個人の主観に還元されない可能性がある(※2)ためであり、
    第2に、昨今のグローバル化への動きに正当性があるならば、ここでの社会とは人間全体の社会、より厳密にはこの世界における人間社会を意味する(※3)ためである。

    わたしは、「「オタク言説批判」について」で中森明夫によるおたくの外延的定義を紹介した。
    わたしが、中森明夫のおたくについての言及を読んだときに引っ掛かったのは、そこに即座には整合性が成立するかどうか判断できない2つのイメージを見いだしたためである。
    「実践的サブカルチャー解釈学」では産経新聞に合成写真を投稿した人の地平に簡単に辿り着くことができたが、中森明夫の地平に辿り着き、その誤りを指摘するために110日も費やした計算になる(なんということだ!)。
    さて、その1つは、わたしが冒頭で提示した内包的定義のようなものであり、もう1つが、趣味にまつわるものである。
    前者は、「マイコンショップでたむろってる牛乳ビン底メガネの理系少年」と「有名進学塾に通ってて勉強取っちゃったら単にイワシ目の愚者になっちゃうオドオドした態度のボクちゃん」といった2つの文から判断することができ、後者は、それ以外の5つの外延的定義から判断することができる。
    (先に外見要素についての言及を持ってきたのは、彼がそちらを強調したいのではないかと考えたためであるが)まず後者から見ていこう。
    「趣味にまつわるもの」とはいったい何かということである。
    少なくとも、いつのまにか有名になっていた「萌え」と関係づけることはできない。
    というのは、「本棚にビシーッとSFマガジンのバックナンバーと早川の金背銀背のSFシリーズが並んでる奴」、「ブルートレインを御自慢のカメラに収めようと線路で轢き殺されそうになる奴」、「オーディオにかけちゃちょっとうるさいお兄さん」という3つの外延的定義が含まれているためである。
    あるいはまた、「2次元に萌えること」というところから解釈を広げて、「虚構世界に遊ぶこと」(虚構と親和性の高いこと)でもない。
    それは、最初のもの(熱心なSFファン)や(アイドルは虚構化されることによって成り立っているという捉え方が現在でも機能する場合には)「アイドルタレントのサイン会に朝早くから行って場所を確保してる奴」についてはともかく、後者2つ(熱心な鉄道ファンとオーディオ・マニアック)はよほど強引に解釈しない限り、したがって妥当性のない推論を展開しない限り当てはまらないためである。
    もう1つの理由は、虚構とはアニメやキャラクター小説、ゲーム、漫画、フィギュア(正確にはこれらは虚構作品であるが)のみに限定されないというものである。虚構の代表的な例としてうわさと歴史を挙げることができる。
    前者については、うわさに踊らされて偽の情報を信じるという行為は、虚構との親和性が高いことを意味する。
    後者については、自らが生きているときのことでさえ、正確に認識できていないにもかかわらず、生前の何らかの事物や事象についての真偽を知り得るというのは到底考えられないため、歴史が完全に事実であると主張することは不可能である。
    たとえば、文献が残されているからといって、その文献を記した人が、官僚や企業のように自分たちの側にとって都合の悪い情報を改竄していたり、脅迫されて改竄させられていたりしないとは限らない。
    また、遺跡や化石の場合、科学的調査によって時代を特定したり、それがそこにある意味を推測したりするが、科学が万能でないならば、科学調査の結果もまた確実ではない。
    したがって、歴史とは物語としての面が相応にあるように思う。それは、直接的には現在の人が過去の人やできごとを物語る〔虚構化する〕ということであるが、その過去の人が、さらにそれ以前の人やできごとについて虚構化しているとすれば、虚構の虚構化、さらには虚構の虚構の虚構化……ということも考えられ得る。
    それゆえ、少なくとも小学校〜高校において教授される歴史を信じる人は虚構との親和性が高いと言える。
    しかし、そうした人びとがオタクと呼ばれることはない。
    <!-- Message No.001646-->

    [27] オタク概念の整備(続き)  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 14:36:57 [認識ID:DGgmHck]
    それではいったい何なのだろうか。
    (冒頭の内包的定義に次いで)ここでも異質=異常という概念を持ち出さざるを得ないように思える。
    それでは、正常(な趣味)など存在するのかという疑問があるかもしれないが、それを直接的に定義することはできない。
    それは、「異常が正常でないことを意味する」のではなく、「正常が異常の欠如を意味する」ためである。
    言い換えれば、「前者=異常は正常によって規定される」というわれわれの直観は誤りで、実際には「後者=正常が異常によって規定される」のである(※a)。
    しかし、たとえば、虚構世界の美少女に(性的あるいは非性的に)萌えていても、あるいはまた鉄道に熱を上げていたとしても、今も昔も変わらないのが、
    それらと緊密な関係にある職業に就いている人びとあるいは外見全体の良い人びとに対しては攻撃が相当に緩和されるという事実がある(言うまでもなく、まったくなくなるということはない)。
    そういった種類、すなわち異常とされる趣味を持っていることが周囲に知られた場合には、たとえそれが犯罪や他者に対して過剰に害悪になるものでなくとも、良くない、あるいは悪い印象を抱かれる(軽く言えば、引かれる)ことはあるだろう。
    しかしながら、後者=外見全体が良い場合、その趣味知られなければ、周囲の人びとは彼がオタクであるとは考えないのである。
    また、「おたくと新人類あるいはオタク」からも明らかなように、おたくとオタクは性質の面で相当に異なっている。しかし、そうであるにもかかわらず、中森明夫の時代も今も、おたく=オタクのイメージの第1に挙げられるのが外見である。
    そして、これら3つのことがまさに、オタクがただ外見(全体)によって決定づけられること、したがって中森明夫がおたくと名づけた人びとに対して抱いていたイメージの片方=虚構との親和性が高いという性質が成立しないことを証明しているのである。

    付言するならば、オタク=外見全体が異質な人びとがそのようになる1つの理由として考えられるのは、一般社会に共有されている価値観に対する興味が薄く、(時間や労力を考慮したとき)それ=一般的価値観に積極的にコミットメントするだけの価値を見いださない「傾向」を有するというものである
    そして、社会から否定されることによってさらにその社会が許容しない方向へと進んでいくのである(※4)。


    (;´Д`)ハァハァ  ……上の文章は中森明夫への批判でしかないという批判には、中森明夫のイメージと今の「一般人」(※5)のイメージは大差ない(あるいは混乱の仕方が酷似している)という理由により却下します。(ビシッ)
    (;´Д`)ハァハァ  ……オタクと虚構を関係づけて捉えることはできないということが理解できたならば、2度とそのようなことはしないように。(ビシッ)
    (;´Д`)ハァハァ  ……オタクの内包的定義に人類史上初めて到達したわたしの仕事は、「オタク概念の整備」という言い方で表されるのが適当だらう。うほほっ?!
    <!-- Message No.001647-->

    [28] オタク概念の整備(注釈)  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 14:44:54 [認識ID:DGgmHck]
    ※1 「人間は、すでに社会が形成されていることを前提にして、社会性の獲得を志向するという生得観念を持っている可能性がある」
      →これは、人間が社会性を獲得することを志向するという生得観念を持つ(可能性がある)のは、生まれてくる前にすでに社会が形成されていることを前提にしているということである。
    というのは、いささか飛躍するが、自然界で生存している人間に近い動物(猿やチンパンジーなど)の生態から推測して、現在の人間の原型であるところの生物が社会を形成したのは必ずしも社会性獲得志向という生得観念によってではなく、それ以外の生得観念あるいは本能によるのではないかと考えるためである。
    すなわち、わたしは、「社会性」を「社会を維持する方向へと自然に=無意識的に行動すること」と考えているものの、維持すべき社会が成立するに至ったのは社会性(およびその獲得を志向するという生得観念)によってではないとの信念を持っているのである。
    # 生得観念というのは、簡単に言えば先験的知識(経験に先立つ知識、生まれたときにすでに具わっている知識)なので、この場合には誤用になることに気づきました(2005年12月16日)。したがって、「本能」と読み替えてください。

    ※2 「共同上の主観は個人の主観に還元されない可能性がある」
      →わたしは「哲学以前に辿り着いた地平」以来、「共同上の主観とは結局は個人の主観の寄せ集めに過ぎず、したがって両者(共同上の主観と個人の主観)に本質的な差を認めることはできない」という立場を取ってきたが、
    先述のとおり、人間は社会性を有する(と言われる)のが本当であれば、社会性の獲得を志向する(社会を維持する方向へと自然に動くことができるようになることを志向する)という生得観念を人類が共通して持つのではないかと考えるに至った。
    そうであるならば、共同上の主観は、必ずしも個人の主観に還元されない、すなわち完全な主観ではないと帰結されるのが自然である。
    また、わたしは、美醜の判断は共同上の主観によってしかなし得ず、したがって完全に相対的なものであると考えていたが、われわれが性欲の対象とするのは、通常は人間(現実世界のそれと虚構世界のそれの双方)であり、
    たとえば犬に欲情する場合であっても、犬を人間として見ているわけではないこと、さらには、人間にせよ犬にせよ、外見をパターンとして分類したときには数が多くないとしても、厳密には個体の数と同じだけ外見の数があり、そうであるにもかかわらず人間や犬といったように1つのグループを想定できることより、
    現在では(美醜の判断は)完全に相対的な事象あるいは単なる個人の主観として見なすことはできないのではないかという考え方を採用するようになっている。
    # しかし、この場合、モリニュー問題によって論駁されることになる。
    共同上の主観が個人の主観と完全には一致しないと思い始めているもう1つの理由は、ニーチェが用いたルサンチマンという語にある。
    わたしは、「純粋ニーチェ批判から純粋一般人批判へ」を書いたときには、ルサンチマンを単なる(個人的)恨みであると解釈していた。
    しかし実際には、ニーチェによるルサンチマンの用法は、彼の思想やルサンチマンの使い方から推測すれば、集団的恨みあるいは社会的恨みとでも呼ぶべきものである。
    すなわち、個人の主観に基づく恨みである個人的恨みと共同上の主観に基づく集団的恨みとは区別され得るのである。

    ※3 「昨今のグローバル化への動きに正当性があるならば、ここでの社会とは人間全体の社会、より厳密にはこの世界における人間社会を意味する」
      →この文より前にある「その人の属する社会」という記述が、国家や地域社会、あるいはまたそれよりも小さな単位の社会を想起する可能性が強いため、このような記述をした。
    すなわち、ここではグローバル化を「あらゆるもの、ならびにあらゆることにおける価値基準の統一化あるいは単一化=人間社会全体に共通する価値基準の創成」として捉えているため、「それ=グローバル化が正しいことであると仮定した場合の社会とは人類社会を意味する」ということである(ただし、個人的には反グローバリストである)。
    なお、「この世界」という表現をしたのは、わたしが様相実在論(簡単に言えば、この世界以外にも世界が本当に実在するという考え方)を支持しているためであり、しかし様相論理を理解していないのであれば様相実在論の本質をも理解できていないということになることより、(「この世界」という表現を)無視してもらっても構わないし、それによって特に問題が生じるということもないだろう。
    <!-- Message No.001648-->

    [29] オタク概念の整備(注釈の続き)  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 14:50:08 [認識ID:DGgmHck]
    ※4 「社会に否定されることによってさらにその社会が許容しない方向へと進む」
      →したがって、(外見全体という要因によって)社会から否定されたときにその社会と同調しようとするか否かが、オタクであるかどうかの分岐点と言える(だろう)。
    一般社会に限らず、そのほかのあらゆる社会(人類全体という社会も含む)においても、おのおのの社会の同調圧力に抵抗する人間は異質な存在として映り、かつ異質な存在の排除が社会性の1つの側面(あるいは要件)であるならば、
    この記事で提示したオタク概念におけるオタクが社会から排除(隷属化、搾取)されるのは必然的な流れと言える。
    そうした風潮がつくり上げられる理由の解明は社会学的なアプローチと心理学的なアプローチ(たとえば同調圧力の反作用により精神安定装置としての犠牲が要求されるなど)によってなされ(ようとしてい)るのだろうが、
    ここでは踏み込まない(ただ、心理学的なほうは、似非心理学に傾倒してしまう昨今の風潮=「心の闇」言説などを考慮すれば、注意する必要はある)。

    ※5 「一般人」
      →「オタク言説批判」で採用した戦略、すなわちオタクを一般人に回収して(まとめて)批判するという戦略はここでも有効であると考える。
    たしかに、少数派であることには相違ないが、「全体的には」非一般人と言えるほどの異質さはない。すなわち、オタクのなかには非一般人も存在するが、オタクであるという理由によって直ちに非一般人であるとは言えない。
    ただし、一般人か否かを単に多数派か否か(※6)のみによって区別するという「一般人的」思考法に従うならばその限りではない。
    # このスレッドの[19]の「4 一般人」を参照のこと。

    ※6 「多数派と少数派」
      →およそマジョリティとマイノリティというほどの意味で用いている。
    以前、「詩的死的ゲーティア」というブログで、この2つにまつわる議論が展開されており、両者は数の多寡で区別されるのではないと書かれていたことに一度は納得したが、
    人類をより小さな集団(国家、地域社会、組織など)に区分して考えた場合、やはり数の多寡によって決定づけられるのではないかと思い直すようになった。
    ただし、男女差別や、人種差別(白人と先住民族、白人と黒人、白人とヒスパニック、白人と黄色人種)では必ずしも数の多い側が差別側になっていないが、それでも極端なまでの開きは見られないように思う。
    また、徳川家康、ヒトラー、スターリン、ポル・ポト、金正日など、きわめて少ない側の人間がきわめて多い人びとを差別・攻撃するという例もあったが、それは伝統的権力(およびその現在の形)によるものであって、
    しかもここでも(権力を握る側からより遠いという意味での)一般人が差別・攻撃にとって重要な役割を果たしているため、数の多寡に関係しないとは言えないだろう。
    もちろん、これとは反対に、常に数の多寡のみによって(マジョリティかマイノリティかが決定されるということも)考えられない。
    重要なことは、差別の起因に数が関係しない場合であっても、差別の維持には数が決定的な役割を果たすということである。
    <!-- Message No.001649-->

    [30] オタク概念の整備(欠陥と補足)  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/26 Thu 14:59:23 [認識ID:DGgmHck]
    ※a 「正常は異常によって規定される」
      →これは「異常は正常に先行する」ことを意味するが、まさにそのために正常(な趣味)を直接的に定義することはできないのである。
    それでは、反対に「異常(な趣味)についてはどうなのか」との疑問が出てくると思われる。これはまったく当然のことであるが、実をいえばこの記事を書き上げたときにはその考えに至らなかった。
    2005年12月14日現在における(確証のない)考えを述べるならば、異常(な趣味)というのもまた定義することはできない。おそらく、正常(な趣味)と異常(な趣味)とは実践においてのみ区分し得るのではないか。
    ただし、先述のとおり、このことが直ちに「正常(な趣味)と異常(な趣味)の区分は相対主義的にしか判断され得ない」ということにはならない。
    わざわざ指摘するまでもなく、正常(な趣味)か異常(な趣味)かということが相対的に決定されるわけではないという理由のみによって、異常(な趣味)を排撃してもよいということにもならない。


    # この記事を読んで、「一般人」と「オタク」は「他者への依存性の程度」によってなし得るだろうと指摘してくれた人がいる。
    とすれば、「他者への依存性が低い」→「その社会に共有されている価値観を重視しない」→「その社会において異質な外見全体を獲得する」という流れのほうが適切かもしれない。
    # しかしながら、「付言するならば〜」という箇所においても「傾向を有する」と書いたように、わたしのなかでは「外見が先行する」という考えのほうがまだ強い(いや、そもそもオタクは「一般人」に含まれるのであるが)。
    それを支える1つの例として、「有名進学塾に通ってて勉強取っちゃったら単にイワシ目の愚者になっちゃうオドオドした態度のボクちゃん」という中森明夫が挙げたオタクの外延の1つを提示することができる(こうした例は枚挙に暇がない)。
    # こうしたわたしの議論に対しては、オタク問題を回避しているだけであるとの反論があるかもしれない。しかし、ヴィトゲンシュタインの仕事の開始部分を思い出してもらいたい。
    彼は、哲学とは何かということに対するそれまでとはまったく異なった答えを提出した。発想の転換を行ったのである。わたしが行ったオタク概念の整備もそれと同じようなことである。
    「オタクとは何かということそのものを追究することには意味がない」とする人間は、たとえばプラズマ・テレビのことをパーソナル・コンピュータと呼ぶといったように、何もかもを自らとは異なる名称で表現する人を(肯定的に)受容しなければ論理的に矛盾することになる。
    しかし、先の発言をするような頭の弱い人間は、おそらくそうしたことを受け入れはしない、すなわちご都合主義を採用するというのが実際のところだろう。
    # 有益な議論は語の適切な使用から始まる。  ←名言
    <!-- Message No.001650-->

    [31] メモ4  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/27 Fri 08:03:04 [認識ID:DGgmHck]
    [13]倫理の拠りどころ
    一般人は「他者との折り合いをつける」ということや、「社会とうまくかかわる」ということを重視している。あるいはまた、上の「反響3」でも転載したが、わたしに「ものごとの考え方が中学生みたい」という言葉をくれる。これらはいずれも考えの方向性が同じであるように思える。
    他方で、一般人は倫理を人格に依拠させている。
    しかし、冒頭のような考え方からすれば、倫理は個別の人間の人格ではなく一種の社会的契約のような社会性から捉える必要があるのではないか。
    たとえば、器質的に問題のない人間が殺人を犯した場合、その人の人格を否定的に捉えるという現在の風潮は誤りであると思う。もし否定するところがあるとすれば、その人が社会〔社会の仕組みなど〕についての理解の仕方、およびそれを深める努力をしなかったことだろう。
    <!-- Message No.001653-->

    [32] メモ5  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/27 Fri 16:43:11 [認識ID:DGgmHck]
    [16]生理的欲求における性欲の特異性
    わたしは、性欲を身体的性欲と精神的性欲に分類して捉えている。
    大部分の人間はこの2つの距離が近いために、その差を感じていないと思う。
    女に対しては「美人は何をしてもよい」という態度と「美人だからといって何をしても許されると思うな」という態度があるが、大部分の人間はどちらかと言えば前者の考え方を持っているのに対して、わたしは後者の考え方を採用している。
    このことによって、身体的性欲と精神的性欲という性欲の2つの直接構成要素の存在に意識的か無意識的かが分かるだろう。
    すなわち、性欲のうちの動物的な部分である身体的性欲は対象の容姿に敏感に反応するため、前者の態度を持つ人びとは精神的性欲を感じ取りにくいのであり、後者の態度を持つ人びとは精神的性欲を感じ取りやすいのである。
    付言するならば、このわたしにとっては、対象の頭が弱いかどうかが精神的性欲を向けられるかどうかに決定的に重要な役割を果たしている。そのうえで、すなわち対象の頭が弱くない場合のうち、対象が性的脈絡においてこのわたしに従順であるという状況が自然に生成されていれば、これ以上にないほどの精神的性欲が発露することになる。
    さて、身体的性欲はさらに無意識的身体的性欲と意識的身体的性欲に分類される。
    先ほど身体的性欲は動物的と述べたが、無意識的身体的性欲はその究極形であり、その名のとおり意識されることはない。子孫を残そうとする、あらゆる動物に具わっている、無意識の、かつ本来的な傾向である。これに対して、意識的身体的性欲は動物的であるが、意識されるものである。完全に制御するのはきわめて困難であるが、不可能ではなく、性的快楽を追求するかどうかは自身で決定することができる。すなわち、無意識的身体的性欲は性欲の基礎であり、意識的身体的性欲は性欲の応用であると言える。
    このことは、性欲が生理的欲求に含まれる欲求のなかでも特異なものであることの根拠ともなる。
    衣に対する欲求、食に対する欲求、住に対する欲求という3つの生理的欲求もまた、それぞれに基礎と応用を持つ。衣に対する欲求について言えば、基礎は衛生に対する欲求と羞恥心の発生回避に対する欲求から成り、応用は社会的地位〔他者の評価〕に対する欲求である。食に対する欲求について言えば、基礎は空腹の充足に対する欲求であり、応用は社会的地位と美食に対する欲求から成る。住に対する欲求について言えば、基礎はストレスの解消あるいは上昇防止、暑さや寒さの緩和、安全に対する欲求から成り、応用は社会的地位に対する欲求である。
    ここで重要なことは、これらは応用だけでなく、基礎も意識的になされているということである。
    また、生理的欲求には排泄欲求もあり、これだけは例外的に応用を持たないが、常に意識的であるという点で衣食住に対する欲求と同じカテゴリーに含めることができるだろう。
    こうして、生理的欲求のうち、身体的性欲のみが、その基礎である無意識的身体的性欲の名で呼ばれるように意識されない欲求、正確には欲望を含むということが明確にされる。
    <!-- Message No.001656-->

    [33] 気づき  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/27 Fri 17:59:18 [認識ID:DGgmHck]
    そうか……倫理が社会的なものだとすれば、わたしの善悪観も変更を余儀なくされるな。
    <!-- Message No.001657-->

    [34] 潜行  投稿者:k3 投稿日: 01/27 Fri 20:39:05 [Chinko]
    間宮先生のブログを見失ってしまったのですが、もしや移転先はここですか?
    <!-- Message No.001659-->

    [35] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/28 Sat 05:54:07 [認識ID:DGgmHck]
    >k3さん
    間借りしている。
    しかし、これは「繋ぎ」である。
    つまり、プレイボーイ(雑誌名ではない)的である。
    わたしは、プレイボーイを嫌悪していたが、もはや性的脈絡におけるフェミニズムの矛盾を看破し、性的脈絡におけるマッチョさを有する女が増えてきている今となっては、自らのマッチョさを嫌悪し、否定する気力もなくなった(ただし、女がそうなったのは男権社会が原因かもしれない)。
    だから、わたしはプレイボーイ的行為を許容する。そうせざるを得ない。

    なお、わたしは反一般人プログラムをまとめずにおれないので、まとめることができれば、http://www11.plala.or.jp/schicksal/ [source]に掲載するつもりである(plalaから別のプロバイダに切り替えた場合は、ここに書き込む)。
    ブログは重くて、見づらい。


    あと、2005年2月以降、わたしは本当に「変わった」ので(変わってないところのほうが多いが)、なりすましはしていないことを記しておく。
    <!-- Message No.001661-->

    [36] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/28 Sat 06:03:45 [認識ID:DGgmHck]
    [35]の訂正をする。
    マッチョさが許容されるのは性的脈絡においてのみであった。
    すなわち、この掲示板をかってに間借りするという行為はその意味では許容されない。
    だから、限定的超越者の名においてこの掲示板内で程度自由にする行動する権利を行使する。
    これはわたしの態度と一見矛盾しているが、通常のわたしは人間としてのわたしであって、わたしには限定的超越者としての側面もあるので、結果的には矛盾しないと思う。
    要約すると、限定的超越者としてこの掲示板でのある程度自由に行動する権利を獲得し、基本的には人間として書き込むということである。
    <!-- Message No.001662-->

    [37] 身体的欲望と精神的欲望の乖離  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/28 Sat 06:10:53 [認識ID:DGgmHck]
    [14]実姉へと向かう感情
    わたしには、実姉が実際にいたとしても「確実に」欲情できるという「自負」があり、かつ和姦を望めないのであれば強姦をも辞さない「覚悟」がある。
    強姦嫌いで知られるこのわたしがそう言うのであるから、大部分の人間にはそれが相当の「覚悟」であると推測できよう。
    しかし、逆説的ではあるが、その程度の「覚悟」を持つこともできないのであれば、姉属性など早々に捨て去ってしまえ。


    [15]エロゲー的状況の生成と維持
    人びとがわれわれについて誤解している点は、われわれが外見の良い女であれば誰でもよいと考えているということである。
    したがって、彼らからすれば、われわれに性欲があり、正当な仕方で性行為をできていない以上、強姦願望を具えているということになる。
    ところが、そうではない。
    われわれは、既存の、都合の悪い女をまったく必要としていない。
    われわれが望むのは、都合の良い女を生成し、維持すること、この一点である。
    すなわち、われわれは状況、女が性的脈絡においてわれわれに従順であるという状況を欲するのである。
    そして、そのような状況は、自然に、すなわちわれわれが何らの働きかけをも行わずに生成されなければならない。
    そうした状況が自然に生成されるためには、女たちがわれわれに対して「無条件の肯定的受容」を経験しなければならない。無条件の肯定的配慮とは、1人の人間として無条件で価値を認めて尊重〔存在をあるがままに受容〕し、肯定的な関心を寄せることをいう。
    それが叶わないならば、性的脈絡において女は不要である。
    まさに、この点が監禁や強姦に対する欲求を具えている者と決定的に異なる点である。
    <!-- Message No.001663-->

    [38] メモ6  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/28 Sat 06:21:18 [認識ID:DGgmHck]
    [18]livedoor騒動にみる根源的矛盾
    まず、堀江を支持していた人間だけでなく、彼を非難していた人間であっても、一般人であれば、同じ一般人である堀江と同じ愚かさ=頭の弱さ(一例に過ぎないが、勝ち組になることを志向したり、負け組を侮蔑したりすること)を有しているのだから、彼を非難する資格を持たないのであるが、ここではそのなかでも特に堀江を非難する資格のない個人投資家なる存在者に焦点を当てることにする。
    第1の矛盾は、現在では、livedoorの株主は、彼らに限ったことではないが、拝金主義的傾向を有するにもかかわらず、同じ拝金主義的傾向を有する堀江を非難することである(「現在では」と書いたように、かつては日本国も全体的には健全な投資家のほうが多かった)。
    すなわち、livedoorの株主が、堀江に対して自分だけ儲けようとするなと発言すること、あるいはそれ以前に考えることは自己否定でもあるが、彼らは、それが自己否定になることに気づいていないか、あるいは意図的に無視しているのであり、これは欺瞞としか言いようがない。
    livedoorの株主が拝金主義的傾向を有すると断定する根拠は、短期的な視点からの株取引や企業に対する過度の要求を行うことは、たとえば、企業が短期的な視点から過度の搾取的行動を取ることを促進することになり、実際に企業がそうしたことを行えば、それによって消費者(これには企業を誤った方向に導いた株主も含まれる)が金銭的被害を受けたり、自然環境や生態系の破壊に繋がったりするためである。ここで注意してもらいたいのは、自然環境や生態系の破壊そのものは別に構わないのであるが、倫理を声高に叫ぶのであれば、それは矛盾である。これは、後で第3の矛盾としても挙げる。
    補足するならば、株主は消費者としての側面も有する。その観点からすれば、次のようなことが言える。消費者は、小売店に対して価格引き下げに対する要求を「社会的に行う」、すなわちそうした風潮をつくり上げているが、これは製造業者や卸売業者への独占禁止法に反する行為を促進することを意味し、結果として製造業者や卸売業者の従業員に賃金低下や解雇などの被害を及ぼすことになるのである。
    このように、ほとんどの一般人によれば、直接的な仕方で他者に配慮することには敏感でなければならないらしく、反対に間接的な仕方で他者に配慮することはどうでもいいか、またはもっと進んで積極的に他者に被害を与えてもいいということである。
    また、ここでは、堀江のほうが拝金主義的傾向が強いなどという反論に対しては、瑣末な差異であり、本質ではないと答えよう。
    第2の矛盾は、livedoorの株主は他企業の株主と同様に、livedoorに株主を優先せよ、すなわち株主に金銭を寄越せと圧力をかけるが、企業が正当な方法で利益を増大させようと思うならば、ブランドを構築し、確立する以外に道はなく、そのためには有益なブランド・リレーションシップ=利害関係者リレーションシップの構築と適切な管理〔維持、および発展〕が不可欠であるが、個人対個人の関係と同様に企業対個人の関係においてもまた、好ましい関係を構築するには時間がかかる。しかし、livedoorの株主は、これもまたそのほかの企業の株主と同じく、企業に対して、すなわちlivedoorに対して時間を与えない。
    これは、暴力を背景に他者から金銭を巻き上げておいて、その他者に対して、返金の意思はあるが、返して欲しければ失明することになると発言しているようなものである。当然、彼はその他者に対して返金する意思など本当は持ち合わせていないということにも注意しなければならない。
    第3の矛盾は、livedoorの株主そうした看過しがたい2つの矛盾を抱えているにもかかわらず、自らは常に法や倫理の側に立つ者として振る舞うのである。
    ここでは、厳密には法の側に立つことについては不問にされるとしても、倫理を主張することはできない。また、重要なことは、「常に」という部分で、一般人、特に一般人の多数派は、法的脈絡においてはもちろんのこと、倫理的脈絡においても自らが加害者となることは絶対にないと考えているのである。しかし、私見では、むしろ多数派一般人こそ非倫理的行為をなすことが多い。


    #1a 面接までに反一般人プログラムがまとまらないときは、上に書いた時事問題で代用する。
    #1b しかし、大部分とは言え投資家、それも個人投資家に限定して論じているため、反一般人プログラムの信頼性が著しく低下することは否めない。
    #2a 反一般人プログラムでは基本的に一般人とだけ書いているが、一般人すべてではなく、大部分の一般人と読み替えてもらいたい。
    #2b これもまたすべてではないが、大部分の分類には例外が付きものだからである。
    #2c たとえば、「人間は他者を殺してはならないという信念を持っている」というときの人間からわたしが漏れているように。
    #2d あるいは、韓国人や中国人を攻撃するとき、あらゆる韓国人や中国人を想定しているわけでは(おそらく)ないように。
    <!-- Message No.001664-->

    [39] 質問  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/28 Sat 07:28:01 [認識ID:DGgmHck]
    [35]と[36]に関連していることですが、このサイトは有料で借りているスペースを利用していますか?
    その場合、負荷が問題になると思うのですが、レス制限最大の文字数の書き込みをするとして、1人1日に1回なら問題ありませんか?
    <!-- Message No.001665-->

    [40] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/29 Sun 11:58:33 [認識ID:DGgmHck]
    http://www11.plala.or.jp/schicksal/ [source]
    正式に移転しました。
    手を加えたものをアップロードしていきます。

    [16]は誤りかもしれない。
    性欲の源泉が子孫を残そうとする無意識にあるならば、それは有機体に具わっている、個体を維持しようとする本来的な傾向であるためで、そうだとすれば、性欲以外の生理的欲求にも同じことが言えるだろう。
    <!-- Message No.001666-->

    [41] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:k3 投稿日: 01/29 Sun 22:03:40 [Chinko]
    >あと、2005年2月以降、わたしは本当に「変わった」ので(変わってないところのほうが多いが)、なりすましはしていないことを記しておく。
    なりすましとかじゃなくて、名前とIDが出ていなかったので気になったのですが、Deg板の「削除してすまない、しばらく潜る Name:>諸氏  Date: 01/26 Thu 17:02:21」という書き込みは間宮氏ですか?

    >[35]と[36]に関連していることですが、このサイトは有料で借りているスペースを利用していますか?
    はい。

    >その場合、負荷が問題になると思うのですが、レス制限最大の文字数の書き込みをするとして、1人1日に1回なら問題ありませんか?
    はい。(フランス語における、nonに相当する「はい」)
    具体的にどうすると問題になるかという点についてはセキュリティ上お答えする事は出来ませんが、現状1日数回に及んでも負荷という面では特に問題はありません。

    >正式に移転しました。
    はい。
    <!-- Message No.001667-->

    [42] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 01/31 Tue 23:50:31 [認識ID:DGgmHck]
    >なりすましとかじゃなくて、名前とIDが出ていなかったので気になったのですが、Deg板の「削除してすまない、しばらく潜る Name:>諸氏 Date:01/26 Thu 17:02:21」という書き込みは間宮氏ですか?
    違います(わたしは行動派ではないし、自律神経失調症でしんどいので、たとえば四国から出るなどの大幅な動きはしません)。
    ただ、以前も言ったが、それを証明する手段は持ち合わせていない。
    覚醒前の言動からすればそれは信じ難いだろうし、まぁ仕方ないと思っている。


    ようやく、反一般人プログラム以外の主要な文章が完成した。
    問題は当初の予定から狂いが生じた反一般人プログラムをどうするかだが……。
    <!-- Message No.001668-->

    [43] まとめて  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/08 Wed 01:17:26 [認識ID:DGgmHck]
    [19]勝ち組―負け組論争
    反一般人プログラムによらない、負け組に対する抑圧や排除への批判の要点は、勝ち組が意識されるとき、負け組は必然的に生成されるというものである。
    その理由は2つある。
    1つは、現実に即して考えるならば、あらゆる社会において機会均等は実現されておらず、かつ企業は時間の経過とともに負け組生成の推進の程度を増大しているためである。たとえば、後者の企業に起因する問題について言えば、短期的に利益を確保するため、ならびに短期的に費用を低減させる目的で人を育成しようとしない傾向が強まっている。これに対しては、負け組が生成される根源的な原因は努力しないことであるという反論があろうが、過去のデータを信用するならば、それは完全にではないが誤っている。かつての日本人は長時間労働をしたということであるが、資本主義的価値観からすれば、これは単に効率と効果の追求が疎かになっていたということに過ぎない。
    もう1つは、勝ちと負けという概念は常に同時に現れるためである。すなわち、勝ち組を意識すればするほど、負け組により正確に焦点が当てられるようになる。たとえば、仮にすべての人間が現時点の共同上の主観による勝ち組になるという事態が起こったとしても、そのときには過去(たとえばこの記事が書かれた時点)の基準による勝ち組の下層が負け組へと変貌を遂げるであろう。もっと言うならば、その社会が勝ち組と負け組を取り上げ続ける限り、負け組が上方向に移行するのに合わせて、勝ち組はさらに上方向に移行するのである。


    [20]虚構世界の美少女に対する態度
    虚構世界の美少女に対して性欲を持つのは現実世界の女から社会的脈絡において女から排除されたことが原因であるという言説があるが、これに対しては1つの疑問がつきまとう。
    虚構世界の美少女に性欲を抱くことができない人は、虚構世界の美少女に性欲を抱くことができるのかということを感覚的に分からないということである。
    しかし、そうであるならば、虚構世界の美少女に性欲を抱くことができない状態にある人が、現実世界の女から社会的脈絡において排除されたことによって直ちに虚構世界の美少女に性欲を抱くことができるようになるという考えの説明がつかない。
    他方、虚構世界の美少女に性欲を抱くことができる人もまた、虚構世界の美少女に性欲を抱くことができるということを感覚的に分からないのはなぜかということが分からない。
    すなわち、虚構世界の美少女に性欲を抱くことができるというのがいったいどういうことかを感覚的に分からない人と分かる人との間には埋めがたい懸隔がある。
    虚構世界の美少女に対して性欲を持つのは現実世界の女から社会的脈絡において女から排除されたことが原因であると言えない例として、わたし自身の過去を思い返してみよう。
    わたしは、小学生のときにはまだわたしが言うところの一般人であったため、少なくとも現在のような仕方では他者を退けてはいなかった。したがって、当然のこととして性欲の対象であった女子とも普通に話していたのであるが、同時に虚構世界の美少女をも性欲の対象としていた。
    このように女から排除を受けていなかった(少なくともそう感じ取っていた)にもかかわらず、虚構世界の美少女に欲情することができるという事例は、虚構世界の美少女との親和性が高い人と虚構世界の美少女との親和性が低い人との間に感覚的な懸隔がある=虚構世界の美少女について共通感覚を持たないという考えを補強してくれる。
    <!-- Message No.001676-->

    [44] 記録  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/12 Sun 00:09:22 [認識ID:DGgmHck]
    [22]倫理の主観性
    倫理は客観に拠らないという結論に到達した。
    どのような行為も善にも悪にもなり得る。
    善や悪という概念は、単に人間社会を維持し、発展させるために、個人あるいは共同体の感覚や感情によってつくり上げられたものでしかない。
    しかも、ある行為の推奨あるいは禁止が人間社会を維持・発展させるものであるかどうかは、未来のことであるために不確定であるうえに、人間社会を維持・発展させなければならない理由は不明確である。
    したがって、どのような行為を行ってもよいか、あるいは行ってはならないかについては、(もし決定する必要があるとすれば)明文化された規範である法によってのみ決定するほかない。
    われわれは、もはや多分に曖昧性を伴う倫理という概念を捨て去らねばならない(これを受け入れるならば、集団的恨みおよびそれに基づく社会的私刑も容認される。ただし、それが社会の維持・発展を過剰に妨げるようになれば、法によって禁止されるようになるであろう)。

    [23]遺伝子操作
    生まれてくる子どもを遺伝子操作によって望ましい状態にするのは正しいか否かという議論がある。
    しかし、事例によって異なるというのが実情ではなかろうか。
    まず、「望ましい状態」と判断するのが、社会の成員か親かによって区別される。
    前者は社会不適合者断種思想を推進することを意味するため、倫理、特に人格に依拠する倫理を保持し続けたいならば矛盾が生じるために許容されず、倫理を放棄するならば矛盾が生じないために許容される。
    後者の場合、操作対象が物理的特性で、かつマイナスの状態からゼロの状態に移行させる種類のものであれば許容される。
    たとえば、先天的な身体障害や知的障害になることがあらかじめ分かっており、それを防ぐことや、病気に罹りにくいようにすることといった生物学的特性=絶対的特性の操作はこれに当たる。病気は、他者からの評価にかかわらず、かつその状態を受け入れられたとしてもマイナスの状態であることに変わりはないためである。
    ただし、これは病気が異常な状態であることを前提としているため、議論の余地はある。
    他方、操作対象が心理的特性であったり、ゼロの状態からプラスの状態に移行させる種類のものであれば許容されない。
    たとえば、総体的外見を良くしなければ社会的排除を受ける可能性がきわめて高いが、ある社会の判断において総体的外見が悪いとされるのは心理的かつ相対的であり、倫理、特に人格に依拠する倫理を保持し続ける場合には総体的外見が悪いことを攻撃の理由とするならば矛盾が生じるために許容されない。
    また、ゼロの状態からプラスの状態に移行させるための操作としてはその社会で評価される能力の賦与が挙げられるが、これもまた社会不適合者断種思想の推進を意味するため、倫理を放棄しないならば矛盾が生じるために許容されない。
    <!-- Message No.001681-->

    [45]   投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/12 Sun 17:31:02 [認識ID:DGgmHck]
    わたしは最終的に農業をやるべきだと思う。
    そこで換金農作物をつくるのが名案として浮かび上がってくるが、実践知識としての換金農作物(キノコ類が有力だ)の生成・管理法を習得するためにはしかるべきところに仕えなければならない。
    問題はしかるべきところがどこかということである。

    協業協同組合の事務職の一次試験を突破することができなかった。
    なぜか?
    わたしの考えではマーク試験のできが悪かったということになる。
    しかし、60分で150問を解答するのはほとんど不可能ではないか。
    あるいは、履歴書の証明写真と自己紹介欄を見て落とされたのかもしれない。
    そのほかの可能性としては、適性検査で事務職には適していないと判断されたのかもしれない。
    少なくとも、小論文が要因ということはないであろう。
    というのは、あらかじめ用意されていた2つの主題のうち、「地球環境と農業の機能について」という題を選択し、反一般人プログラムで採用した戦略、すなわち矛盾を突くことに徹するという手法を用いたためである。
    より具体的には、地球環境保持と農業発展の推進が同時に成立しないこと、ならびにいずれの立場を採用した場合であっても別の困難が待ち受けていることを提示した。
    645字という制限下ではこれ以上にない論文になったと確信している。

    昨日、再放送ではないかと思うが、秋葉原特集を組んでいたテレビ番組があった。
    内容は、秋葉原によく通う人びとのうち、アニメ、キャラクター小説、ゲーム、漫画、ドール(俗にいうフィギュアのことである)に対して強い選好度を示す人びと、言い換えれば古いオタク観によるオタクを追いかけ回すというものであった。また、制作側の姿勢は好意的に見せかけてはいるが、社会的排除/抑圧を加えるというものであった。
    このテレビ番組を見ることによって得られたのは、2005年8月の気づきが確信に近くなったことである。
    より具体的には、ある趣味を選好する人びとの総体的外見は全体として似通ってくるのではないかということである。たとえば、ストリート・ミュージシャン、ストリート・ダンサー、ラッパー、スノーボーダーなどは各分野内で似通った総体的外見を有している(あくまでも全体的に)。
    問題は、どういった趣味のときにこのような事態が生じるかということであるか。
    <!-- Message No.001682-->

    [46] 計算が狂った。  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/13 Mon 15:47:22 [認識ID:DGgmHck]
    派遣会社に行ってきた。
    それで分かったことは、直接税の滞納はできないということである。
    派遣会社を通さないパートなら滞納も可能であるが、その場合でも精神衛生観点から健康保険には入っておくことが望ましく、そうすると居場所が知られるため所得税を取り立てられる。
    取り立てを拒否すれば健康保険の利益を得られなくなる。
    国民年金(あるいは厚生年金)も何かの理由で滞納できなくなるようになるということである。
    すると、どう切り詰めても趣味費(哲学書含む)が0円になる。
    しかも、175000円で0円だ。148000円だったら生活もできない。

    ◇生活必需品
    PC(2台):400000円
    趣味用ハードウェア(プラズマテレビ×1、DVDレコーダー×1、ゲーム機×3、DVD-RWドライブ×2、複合機×1):620000円
    家庭用電化製品(冷凍・冷蔵庫×1、電子レンジ×1、洗濯機×1、空気清浄器×1):200000円
    買回品(眼鏡×1、自転車×1):100000円

    ◇支出の内訳
    生活必需品:10000円
    通話料:2800円
    通信・ISP利用料:4500円
    住居費:50000円
    食費:13950円
    衣類費:5000円
    水道代:4000円
    光熱費:8000円
    ガス代:8000円
    医療費:2500円
    雑費:5000円
    直接税:61250円
    合計:175000円

    どうする?
    NHK受信料も払えないが、そうなるとこれからは違法になるらしいな?
    ということはテロリストになるしかないのか?
    それよりもアニメ、キャラクター小説、ゲーム、漫画が欲しい。
    哲学書は図書館にどうにかさせる。
    とりあえず、アニメ、キャラクター小説、ゲーム、漫画の問題を誰かがどうにかしろ。
    <!-- Message No.001683-->


    [48] かわいい?  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/15 Wed 11:44:01 [認識ID:DGgmHck]
    http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/rensai/20060113ok04.htm [source] [source]
    これはちょっと違うなあ。
    違うというか、多数派のことしか言及されていない。
    この記事は、萌えに限定するなら非性的萌えのみを想定しているが、実際には性的萌えもあるだろうが?
    「おたく」の使い方を間違えているのは置いておくとして、一般社会から排除されているものを受け入れる人というのは、一見寛容な態度を持っているようで、しかしその実、受け入れ方がいびつなことが多い。
    たとえば、この記事のように非性的萌えは受け入れて、性的萌えは意図的に黙殺するとか、もっと酷くなると、萌え全体を排除して、物語の部分だけに芸術性を見いだすことによって礼讃するとか。
    より具体的に言えば、「その一部」を自分の側に属するものと見なすことによって受容しているのであって、決して「その一部」が異質なままに存在することを受容しているのではない(虚構作品の美少女は虚構である⇒だから受け入れない←→歴史は虚構ではない⇒だから歴史を受け入れる)。
    つまり、(倫理的主張をなす人の場合には)根源的矛盾を抱える者か、あるいは本来同じ側に属するものの一部を切り捨てて共同上の主観によってより高貴と見なされている位置に移行しようとする安易な権威主義であるか。
    結局、社会的に排除すべき少数の何かは常に確保できるようにしている。
    <!-- Message No.001686-->


    [50] 皮肉な事実  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/18 Sat 13:35:10 [認識ID:DGgmHck]
    多数派のつくる常識なるものは、多数派にとって居心地の良い規則である。
    そして、常識や明文化されていない規則を頑なに守ろうとする理由は居心地が良いことであるにもかかわらず、強引に正当性を持たせようとする。
    すなわち、多数派は「子ども」であることを蔑視するが、何のことはない、彼らの「子ども」観に整合性を持たせるならば自らもまた「子ども」、しかもより性質の悪い「子ども」なのである。
    そして、彼らは自らが「子ども」であることに気づいていない。
    それでは人間社会を維持できない?
    人類が存在し続けなければならないという情緒的な考えを根拠づけたまえ。
    <!-- Message No.001693-->

    [51] 論理以外は相対的である。  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/18 Sat 23:56:32 [認識ID:DGgmHck]
    絶対確実なのは論理のみであり、その点で芸術や文学は宗教と同じ項に分類することができる。
    芸術や文学を礼讃する=芸術や文学のすばらしさが普遍的であると考える人びとの多くは宗教を気持ち悪く思っているが、それは自らの行為=芸術や文学の礼讃を気持ち悪いと思うことと同義であり、矛盾している。
    同様に、彼らの多くは宗教と対置される科学を礼讃しているが、このことは自らの行為=芸術や文学の礼讃を否定することを意味しており、矛盾している。
    したがって、芸術や文学をすばらしいと思うことと虚構世界の美少女に性的萌えを抱くこととは同レベルである。
    つまり、どちらも相対的にしか判断し得ないのである。
    <!-- Message No.001695-->

    [52] 不思議  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/19 Sun 04:32:30 [認識ID:DGgmHck]
    「あれ痛いですよね」
    「あれとは何ですか」
    「○○ですよ」
    「……痛いです……けど……」
    「ですよね」
    「なぜそれほど容易に賛同することができるのですか」
    「は?」
    「このわたしが○○のとき、このわたしはたしかに痛みを感じます。しかし、それはこのわたしの痛みであって、あなたの痛みではないと思いませんか」
    「……」
    「痛みは経験ですね。あなたがこのわたしの痛みを理解するとは、ある時点におけるこのわたしの経験をあなたが経験することを意味します。果たしてそのようなことが可能でしょうか」
    「…………」
    「可能であると主張するならば、それを論証してもらいたいものです」

    将来は、こういう会話をしたい。
    少しでも忌々しい一般人的思考法を唾棄してやるのだ。
    <!-- Message No.001696-->

    [53] 危険なことだらけ  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/23 Thu 18:57:49 [認識ID:DGgmHck]
    裁判員制度を実施すれば冤罪がますます増えるであろう。
    記号論理以前の反一般人プログラムすらクリアできない、頭の弱い一般人に何ごとかを判定する資格などないのである。
    最低でも記号論理をマスターしろ。話はそれからだ。

    「イスラムを理解しよう」という呼びかけは危険である。
    なぜなら、これは「努力した後にも自らの理解の外にあるものは社会的に排除する」という含みを持っているためである。
    おそらく、先のような考えを持っている人びとで、こうしたことに自覚的である人はいない。
    すなわち、ここにも一般人的欺瞞が見受けられるのである。
    個人的には、イスラム教徒のほうが、たとえイスラム原理主義者であっても多数派一般人よりはマシなので、むしろ精神的に支持する。>イスラム原理主義者たち
    もっと多数派一般人を殺してやれ。
    <!-- Message No.001699-->

    [54] 覚書  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/24 Fri 03:24:16 [認識ID:DGgmHck]
    ・メモ帳→覚書
    ・倫理について
      (1)「壁をつくっているから社会的に排除される」⇒倫理が普遍的でないことを宣言している=倫理は相対的である⇒倫理に依拠しても正当化し得ない
      (2)大ブリテンおよび北アイルランド連合王国で「ハッピー・スラッピング」なるものが急増しているらしい。これは、「脈絡もなく通行人に暴行を加えつつ、携帯電話を用いて写真や映像に残し、同じ行為をしている他の人びとと見せ合う」という行為であるらしい。
         こうした行為に関して取材に答えた警察官は、「信じられない云々」と語っていた。わたしも同感だ。嫌悪感が湧き上がってくる。
         しかし、「私」がその行為を信じられないことやその行為を嫌うこととその行為を行っては成らないこととはいったい何の関係があるのだろうか。
         このわたしがその行為を嫌えば、その行為が「してはならない」リストに加えるのが正しいという論理的規則あるいは物理的法則が生み出され得るものなのか。
         それはないだろう。結局、ここでも多数派に共有される主観によって行為の是非が決定されていくのである。多数派は、数が多ければ何でも正しいことになる社会が成熟された社会であると考えているらしい。
    <!-- Message No.001700-->

    [55] 覚書(続き)  投稿者:虚構世界名存在 投稿日: 02/24 Fri 03:44:34 [認識ID:L6g3jFO]
    ・倫理について(続き)
      倫理に対して矛盾する態度をとる(状況によって態度を変える)にもかかわらず倫理なるものを何ごとかを正当化するための根拠として持ち出す頭の弱い一般人は、「不平等があっても、まず倫理を守れ」という。
      それでは、「不平等があっても、議論はともかく、実際にはまず税率を上げる」という政府の方針を非難しているのはどういったことか。
      自分たちの都合の良いときだけ他者に何かを強要するという態度についてどうお考えであるのかお尋ねしたいところである。
      わたし?  わたしは、倫理などという虚妄はもはや打ち捨てたので、税率についてもこれを上昇させるなと声高に主張する資格があるから、そうさせてもらうよ!!!1
      そもそも、政府の負担が少ない「小さな政府」を目指しているにもかかわらず、税金は多く取るというのは矛盾しているだろうが?
      大して論理力を必要としない矛盾を犯すバカばっか。
      もともと税金が少なかっただと?
      それでは、高所得者から金銭を多く徴収するシステムを構築し、運用を開始した後に、官僚を皆殺しにせよ。話はそれからだ。
    <!-- Message No.001701-->

    [56] [55]の補足  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/24 Fri 03:51:17 [認識ID:DGgmHck]
    >「不平等があっても、まず倫理を守れ」
    「不平等があっても、倫理的でないと社会が成り立たない(という思い込みがある)ので、まず倫理を守れ」
    (そもそも人間社会が成り立たたないと何か問題があるのだろうか)

    >「不平等があっても、議論はともかく、実際にはまず税率を上げる」
    「不平等があっても、議論はともかく、全然回っていかないので、実際にはまず税率を上げる」

    このように補足すれば、両者の主張の共通点がありありと分かるだろう。
    <!-- Message No.001702-->

    [57] さらに改良  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/24 Fri 03:57:03 [認識ID:DGgmHck]
    >>「不平等があっても、まず倫理を守れ」
    >「不平等があっても、倫理的でないと社会が成り立たない(という思い込みがある)ので、まず倫理を守れ」
    「不平等があっても、倫理的でないと多数派に都合の良い社会を維持することができないので、まず倫理を守れ」

    >>「不平等があっても、議論はともかく、実際にはまず税率を上げる」
    >「不平等があっても、議論はともかく、全然回っていかないので、実際にはまず税率を上げる」
    「不平等があっても、政府にとって都合の良い国家が実現しないので、議論はともかくとして、実際にはまず税率を上げる」

    このようにすれば両者のご都合主義が明晰に分かるであろう。

    もはやこのわたしが正当性という点で一般人に敗北することなどあり得ない。
    一般人の矛盾は努力によって繕えないほどに過度であったのだ……。
    <!-- Message No.001703-->

    [58] 完成  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/24 Fri 13:54:06 [認識ID:DGgmHck]
    なるほど。
    [55]に疑問を覚えると?
    >それでは、高所得者から金銭を多く徴収するシステムを構築し、運用を開始した後に、官僚を皆殺しにせよ。話はそれからだ。
    この部分が疑問であると言うのか……。
    高所得者から金銭を多く徴収することに正当性があるのは、[43]の勝ち組―負け組論争を見れば理解できよう。
    [43]を補足するならば、一時的にたとえば誰もが年間1億円を獲得できるようになったとしても、貨幣の価値が低下するため問題は生じるのだ。
    そして、官僚を皆殺しにする必要があるのは、官僚が無駄遣い(税金をおこづかいとするという行為も含む)をし続けてきたことが、借金の最大の要因であるにもかかわらず税率を上昇するなどというのだから、死ぬのは当然である。
    改めるという方法もあるとの考えもあるかもしれないが、戦後50年間以上も猶予を与えてできなかったのだからもはや待てないということになる(戦前も合わせればもうものすごいことになる)。
    <!-- Message No.001704-->

    [59] 根源的矛盾と死の関係  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/24 Fri 14:28:18 [認識ID:DGgmHck]
    [58]素っ頓狂に聞こえるかもしれないが、冷静になって考えれば[58]が論理的に正しいことが分かる。
    (1)官僚の思考は辿っていけば根源的矛盾へと至る。
    (2)根源的矛盾とは、一方で(感情に根差した)倫理を思考の根源として持ち合わせていながら、他方で都合が悪くなればその倫理を一時的に消失させるという行為のことである。
    (3)すなわち、根源的矛盾とは、何でもありの世界を許容していることを意味するが、実際に根源的矛盾を許容している存在者など存在しない。⇒人間であれば(というよりも、「何でもありの世界」というのは人間の言語である以上人間にしか通じないので当然のことであるが)を用いて感覚的に許容できない。なぜなら、何でもありの世界がどのような世界であるのかを想像することすらできないためである(『北斗の拳』的世界ですら何でもありではない)。
    (4)それゆえ、根源的矛盾を引き起こす存在者は論理的に存在することができない。
    (5)それゆえ、根源的矛盾を抱える存在者は死ななければならない。⇒論理的に存在し得ない存在者が存在しているのは論理的に、したがって絶対的に誤りである。
    簡単なことだろうが?
    一般人のように倫理という名の感情に基づいて話しているのではなく、論理に基づいて話しているのである。
    なぜなら、論理のみが絶対であるからだ。
    論理以外による判断は各人によって異なる。
    だから、わたしは真になるような命題以外の命題は普遍化させないことに決めたのである。
    もし、わたし自身がそのようなことをしていることに気づけば即座に改める用意はある。
    <!-- Message No.001706-->

    [60] 最終局面  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/24 Fri 16:59:09 [認識ID:DGgmHck]
    それで、(なぜ人類が存続しなければならないのかという問いの後に)、一般人はこう言うはずです。
    「じゃあ、おまえがまず実践してみろ」と。
    これは、つまり、人間社会を否定するならば、それを言葉の上だけでなく、行動で示せということなのですね。
    しかし、これは順序が逆なのです。
    わたしは、一般人の矛盾を解きほぐした後に現れる規則の基で実践すると言っているのです。
    なぜって、たとえば、議論のためにイスラム教に(一般人の態度のような)盛大な矛盾があることを前提として、このわたしに対して「イスラム教の国家へ行って、イスラム教徒の眼前で豚肉を食べよ」などと言うのはおかしいだろうが?
    ここではイスラム教が矛盾している(と仮定している)のだから、まずイスラム教を改正してから、わたしは彼らの前で豚肉を食べるというのが適切です。
    それと同じで、今度は仮にではなく実際に矛盾(それも根源的矛盾)を犯している一般人がつくる社会システムを改めてから、わたしがわたしの考えを実践するのが適切と言えるのです。
    つまり、矛盾している考えと社会的な力を持った多数派は、自らの正しさを信じているからではなく、最初からわたしを叩きのめそうとして先のような発言をするのが見え見えなんだよ。
    そしてこうした態度は倫理の側に立つことと矛盾しているのです。  # 根源的矛盾の繰り返し
    ええかげんにせえよ?
    万が一、自らの正しさを信じての発言なら、矛盾は重大さを増すばかりである。
    <!-- Message No.001708-->

    [61] …………  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/24 Fri 17:58:40 [認識ID:DGgmHck]
    それでは(ケンシロウやラオウのいない)『北斗の拳』的世界が誕生するのか。
    推測の域を出ない=推論ではないが、わたしもそう思う(当然、それ以外の世界が誕生する可能性もある)。
    しかし、それ(ら)は何でもありの世界ではない。
    たとえば、『北斗の拳』的世界においては暴力が先行するが、依然として数も重要である。
    ここでは自然にそうした規則が生成されている。
    ここではまた、倫理という、感情を正当化あるいは普遍化するための語は存在しない(個別の人間の信念としては存在し得る)。さらに、復讐は承認される。
    しかしながら、ここで即座に強者こそが善であるなどと飛躍してはならない。
    ニーチェの誤りは、真でも偽でもない命題を真であるとかってに思い込んだ点にある。
    善〔悪〕が相対的であるならば、善〔悪〕と対応する悪〔善〕もまた相対的であり、弱者〔強者〕が相対的であるならば、弱者〔強者〕と対応する強者〔弱者〕もまた相対的なのである。
    したがって、正しさを求めたいのであれば、われわれはただ、論理的真理のみを探究するという過程に生きるか(それを厭うのであれば死ぬほかない)。
    そして、それでいい。
    ここに過程至上主義生物が誕生するのである。
    とても興奮してきた。
    <!-- Message No.001709-->

    [62] 温泉の源泉を掘り当てたようなもの  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/24 Fri 18:46:45 [認識ID:DGgmHck]
    たとえば、社会的排除を行っても、社会的排除は善でも悪でもないというのだから構わないということになるが、このとき、社会的排除は悪であるという前提に立ってそのことを述べているのではないかという疑問を持つかもしれない。
    実は、これはちょっとややこしい問題なのだ。
    わたしは、社会的排除を悪であるとは思っていない(倫理は普遍的であるが、一般人の倫理は矛盾していると考えていた当時、すなわち転向前は、悪であると思い込んでいた)。
    しかし、社会的排除を行ってもよいというときに暗に含まれているように思われる、社会的排除は悪であるという見解は、一般人の倫理観に整合性を持たせようとした場合に生じる1つの方法である。
    倫理が感情から出発していることについて異論はないだろう。
    この時点で倫理の相対性について気づくべきであったという反省は置いておくとして、さらなる問題は、その感情に正当性を持たせるという戦略を採用しており、したがって一貫性を維持しなければならないにもかかわらず、他者に対する攻撃について2つの異なる態度、すなわち人(ある人びとは問答無用で攻撃してもよく、ある人びとは攻撃してはいけないとする態度)とこと(あることを行った人には攻撃してもよく、本質的に同じ別のことを行った人には攻撃してはいけないとする態度)に対する異なる態度を採用していることである。
    すなわち、一般人は、両者は同時に成立可能であると考えるのである。
    ところが、これはわたしのいう根源的矛盾に当たり、これを抱える人は論理的に存在し得ない。そして、虚構世界のように、論理的に存在するが物理的に存在するかどうかは不問にされるというのはアリだが、論理的に存在し得ない何かが物理的に存在できるはずはないのである。
    したがって、即刻死ぬか、早急に根源的矛盾を解消せねばならない(というか、何で論理的に存在できないはずの存在者が存在しているんだ?  意味不明な事態だ)。
    すると次に、根源的矛盾を解消するとなったときに、どうするかが問題となる。
    さて、どうする?
    人とことという2種類のカテゴリーで採用している二重基準を改めるか?
    いやいや、実はその前に先ほど言った、論理的に真でも偽ない命題の真偽など決定することはできないのだ(真でも偽でもないのだから当然)。
    だから、倫理は(論理で語れぬ限り)相対的であり、わたしの考えが論理的に正しく、したがって正式に採用されることになるのである。
    <!-- Message No.001710-->

    [63] このわたしの隘路  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/24 Fri 19:18:26 [認識ID:DGgmHck]
    「論理的に存在し得ない存在者が存在する」というのは偽であるから、この考えは捨て去らねばならない。
    だいたい、偽である命題を正当化している存在者は論理的に存在し得ないなどと飛躍したところが誤りだったのだ。
    これでこの問題は解決した(だから、官僚は死ななくてもよいことになる)。
    ほかに問題はあるか。
    ないなら、これをまとめて反倫理的論考としてまとめるか、反一般人プログラムに組み込む。
    反一般人プログラムに組み込む場合、構成を変える必要がある。
    というのも、一般人が倫理について2種類の二重基準を採用しているのには気づかなかったからだ(さっき気づいたばかりだ)。

    そう言えば、さっき電話がかかってきて、IT系のサービスの売り込みだったようだが、むかついたので、復讐リストに加えたいのだが、相手の声が低く過ぎて、何ものなのか聞き返したけどよく聞こえなかった。
    とにかく、断ろうとして「ああー、必要ないで」とまで言ったのだが、最後の「す」を言う前に、電話を切られた。
    なぜ?
    まあいいが、あいつは許さない。誰か分からないで困っているのだが。
    まあ、許さないと言っても、現在の過てるルールの下ではほとんど動けないからどうしようもない。
    ただ、動けても復讐を遂行できるかどうかは別問題。
    もう、どいつもこいつもわたしの邪魔ばかりして殺戮したい、というよりも存在を消滅させてやりたい気分でいっぱいだ。
    どうにもならないが。
    体調が常に悪いことの最大の要因はストレスであるだろうな。
    まあ、たった1つでも因果関係なるものが成り立つかどうかという疑問も提出されているから、分からないが。
    <!-- Message No.001712-->

    [64] 別のこと  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/24 Fri 20:02:58 [認識ID:DGgmHck]
    最近、気になっているのは、賃貸物件から退去する際に、どの程度支払い義務があるのかということである。
    http://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/torikumi/kaihukugaido.htm [source]
    http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/juutaku_seisaku/tintai/310-3-jyuu [source] taku.htm
    5年も住んでいれば、自然損耗があると考えられるが、全部こちらの負担になるらしい。
    これは納得いかない。
    そもそも自然損耗分と自然損耗以外の部分を分けられるとしても、自然損耗以外の部分についても支払い義務が生じるものだろうか。
    というのも、自然損耗以外の部分については、入居者が管理を怠っていたことが原因であるという論法が取られる。
    すなわち、決定論が採用されている。
    とすれば、入居者が管理を怠ることも決定されていなければならないはずである。
    両立論は却下。
    まあ、持ち出してきてもいいが、隘路は明晰である。
    というわけで、自然損耗以外の部分の損耗が入居者の原因であるとするならば、入居者に責任を問うことはできず、入居者の原因でないとするならば、こちらも入居者の責任を問うことはできない。
    それでは、自然損耗以外の損耗が管理者の原因であるのか。
    それも違う。原因などどこにもないのである。
    どこにもない原因を探すというのは、心を解剖によって探すことができないにもかかわらず、心を探しているようなものであると言えようか。
    よって、管理者は入居者に金銭の支払いを求める論拠を持たない。
    以上より、わたしは管理者に対していくらも支払う必要性がないことになる。
    まあ、敷金ぐらいはくれてやるか。
    それ以上のものを強要するというのであれば、こちらにも考えが……なかった。
    そう、ないから「気になっていること」としてここにこうして書き込んでいるのである。
    <!-- Message No.001714-->

    [65] ニーチェ  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/24 Fri 22:42:11 [認識ID:DGgmHck]
    ニーチェとの齟齬が何であるか分かったかもしれない。
    時代や対象の相違が問題かもしれない。
    わたしは彼の生きた時代がどんなものだったかをまったく知らないのだ。
    対象は主としてキリスト教徒であったということであるが、これについてもあまり知らない。
    これに対して、現代の日本社会の一般人といえば、強者と弱者をご都合主義的に使い分けているのだ。
    だから、わたしがニーチェと一致するところもあるが、決定的に何かが違うと感じていたのだ。
    このどこにも属せない感は、これまで何度か述べてきたが、すべて一般人のご都合主義的矛盾に端を発するものだ。
    だから、わたしは一般人による分類法に違和感を覚え続けてきた。
    たぶん、そうだ。
    <!-- Message No.001715-->

    [66] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/26 Sun 19:14:19 [認識ID:DGgmHck]
    原因ではなく理由にすればよいのだ。
    「圧政により暴動が起きた」という文は、通常、圧政という原因によって暴動という結果が起きたと解釈される。
    しかし、圧政によって常に暴動が起こるわけではない。
    したがって、先の文は暴動の理由は圧政であるという意味で記述・解釈するのが適当ではないか。
    つまり、原因が物理的であるのに対して、理由は心理的なのである。
    また、この場合、個別の圧政と暴動との関係について述べていることになるため、因果論の罠から抜け出すことができる。
    <!-- Message No.001716-->

    [67] 続き  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/27 Mon 01:15:24 [認識ID:DGgmHck]
    勘違いしてはならないのは、(上でも述べたが)倫理は規則のうちの1つに過ぎないということである。
    したがって、倫理が虚妄であることを認め、したがって倫理が成立しない社会が到来したとしても、それは何でもありの社会〔あるいは何でもありの世界〕とは異なるのである。
    人間社会全体が裏社会的になったとしても、すべての規則が消滅するのではなく、単に新たな規則が機能するようになるだけである。
    人は、多様性をそのままに放置しておくことができない。多様性の維持と人間が存在することは同時に成立しない。
    そこで、人は多様性のうちのいずれかに依拠するようになる。これを実践という。
    これに対して、すべての規則が消滅する何でもありの世界とは、多様性をそのまま受容する、すなわち主体が何らの実践をもしない世界を意味するのである。

    なお、随分と意見を変更したわたしを指して、優柔不断であるとか、批判対象の一般人と同じであるとか言うのは誤りである。
    こうした思想の変化を示すことは知的誠実さなのだ(ヒラリー・パトナムも本を執筆するたびに転向を繰り返したらしいぞ)。
    変化と述べたが、ここに注目してもらいたい。
    一般人は変化しているのではなく、同時に成立不可能な異なる考えを同時に持っているのであるのに対して、わたしは考え方を変えていっている、すなわちあることについて同時に複数の意見を持っているのではない(たとえば、以前は倫理に依拠していたが、現在は異なるなどのように)。
    <!-- Message No.001717-->

    [68] 追加  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 02/27 Mon 11:08:05 [認識ID:DGgmHck]
    論理は、人間が知ることのできる唯一の絶対的なものである。⇒論理以外の絶対的な何かは、あったとしても人間にとって知ることのできない領域=外にある。
    倫理は、人間社会が生み出したものである。⇒倫理は人間にとって知ることのできる領域=内にある。
    したがって、倫理は2重に相対的なものである。⇒第1に、倫理が論理に依拠しない絶対化可能なものかどうかは知り得ない〔人間社会の外側においても適用可能であるかを知り得ない〕ため、相対的なのであり、第2に、そもそも倫理は語である以上、人間(社会)が生み出したものであり、かつ論理に依拠していないため、相対的なのである。
    <!-- Message No.001719-->

    [69] 残念ながら、  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/01 Wed 22:50:29 [認識ID:DGgmHck]
    論理は好むと好まざるとにかかわらず、厳然としてあるので……。
    倫理は好むかどうかによって決まってしまうものなので…………。
    残念ながら、ね。

    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000E0VSDE [source]
    このわたしの主観によれば、「fragment」、「Theme of HE」、「re-do」、「netizen」、「subnetwork」、「include」、「Lead Out」、「To the Moon」がすばらしい。
    このわたしの主観によれば、ね。
    絶対化され得ないのだよ、キミ。

    このわたしの主観によれば、武力的暴力は嫌いということである。
    だから、どうした。
    絶対化され得ないのだよ、いい加減に理解したらどうなんだ。うん?

    このわたしの主観によれば、
    このわたしの主観によれば、
    このわたしの主観によれば、


    わたしが論理を嫌っていたとしても、論理的真理だけは否定し得ない。
    だったら、真なる命題以外は相対化するほかない。
    そこは個人の主観が衝突を繰り返す世界だ。
    むろん、主観を共有するのもよかろう。
    しかし、その主観にはどれほどの正当性も持たせられない。
    <!-- Message No.001721-->

    [70] I/Oについて  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/01 Wed 22:56:13 [認識ID:DGgmHck]
    http://www.regista.co.jp/io/ [source]

    (1) 多世界解釈
    Keyword集を読む限り、多世界解釈下では実際に複数の世界が実在するわけではない。
    つまり、多世界解釈では(様相実在論のように)可能世界があるのではなく、可能性だけがある。
    そうであるとすれば、多世界解釈では、各存在者は1つの事象について1つの状態=現実しか観測=経験することが物理的にできないはずである。
    それでは、物語中でなぜ複数の可能性を経験したのか?
    (また、様相実在論の場合であっても、各存在者が属している世界が各存在者にとっての現実なのだから、「すべてが現実である」とか「すべてが現実であると同時にすべてが虚構である」という考えは意味が分からない)

    (2) 観測者
    観測者は意識を持っていなければならないとする禿解釈は、確定させるべき何かが必ず言語によって表現されることを考えれば妥当である。
    なぜなら、少なくとも人間の言語は意識がなければ使用不可能だからである。
    このことによって、事実(や事物)というものが、言語と切り離して存在することができる何かとしての客観ではないことになる(これについて、純粋に客観と思われる何かであっても主観的側面を伴うと考えるほうが正しいのか、そもそも純粋な客観というものを想定することはできないと考えるほうが正しいのかは分からない)。
    いずれにしても、言語という制約を受けない存在としての超越者が禿解釈において観測者になることはできないようである。
    逆説的に言えば、プレイヤーは言語という制約を受ける存在であるため、超越的視点に立つことはできない。
    さらに『I/O』の場合、Eルートで明らかになったように、なぜか原理的に世界の外側に立つことができないキャラクターがプレイヤーと同等の立場に立っていることからも、プレイヤーは超越的視点を持つことができない。
    しかし、このキャラクターの不可解な能力(意識に連続性を保持した状態でログインとログアウトを繰り返せること)と多世界解釈とは矛盾する(と思う)。
    <!-- Message No.001722-->

    [71] 倫理的功利主義  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/02 Thu 08:07:37 [認識ID:DGgmHck]
    功利主義の下では、絶対に誰かが犠牲者となる。
    そしてそのことについて、功利主義者は、軍国主義者が、国民が国家のために武力的戦いをするのは絶対的に正しく、国家のために戦わないのは絶対的に間違っていると主張するのと同じように、全体が利益を得れば少数は有無を言わさず切り捨てるのが絶対的に正しいと考える。
    これによって犠牲者が生み出され、犠牲者のなかから反乱者が創成されるのであるが、ということは功利主義者はその反乱者によって他の功利主義者が害されることがあってもそれを許容していることになる。
    これに対して、多数派になるように努力することによって問題は回避されるという反論があるかもしれないが、これは論理的に誤りである。
    というのは、多数は少数という語とともに用いざるを得ないためである。すなわち、多数派が存在するところ、少数派も必ず存在する。
    そして、功利主義者は、そのことをあらかじめ想定しており、したがってまだ見ぬ少数派をあらかじめ切り捨てるのを楽しみにしているのである。
    功利主義者いわく、それが倫理である。
    <!-- Message No.001723-->

    [72] 弱い不寛容さ、再び。  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/02 Thu 08:25:31 [認識ID:DGgmHck]
    「イスラム教を理解しよう♪」などと安易にほざくバカもまた弱い不寛容さという性質の悪さを持っている。
    彼らは共生を志向し、共存を拒絶する。
    共存が自らにとって酷く困難であるためだ。その困難さは、感覚の段階から始まる非常に強力なものである。
    それでは、その困難な共存とは何か。
    簡単に言えば、他者が自らの領域外に位置する、理解できない存在であってもそれでよいと考え、他者をそのままで存在することを許容することである。
    これに対して、共生では、他者を自らの領域内に取り込むことによって他者の存在を許容するのである。つまり、努力しても理解できない他者は排除しようとする。
    現在では、根拠も提示できていない(そもそも提示しようともしないが)のにそれが絶対的に正しいと考えるバカが圧倒的多数を占めるため、共生に反対する人びとは単なる個人的排除ではなく社会的排除を受ける羽目に陥っている。
    念のために言っておくが、共存的思考下では仲良くしたくなければする必要はない。
    だが、仲良くしないことと社会的排除を加えることとは全然違う。
    仲良くしないというのは、あえて言うならば消極的受容である。

    好意を持てなくても、論理的正しさ以外の正しさが相対的である以上、大多数が好意を持てないその他者が間違っているとは言えないのである。
    <!-- Message No.001724-->

    [73] 分からないこと  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/02 Thu 08:45:48 [認識ID:DGgmHck]
    「〜できたのに、〜しなかった」とか「あのとき〜していたら、……」とかいう物言いがまったく理解できない。
    わたしは(弱い)非宿命論を採用しているが、それでも先の発言は理解できない。
    非宿命論においても、過去の何かについては可能性や仮定を持ち出すことはできないはずである。
    なぜなら、過去はすでに決定されているからだ。
    可能性や仮定を言うことができるのは、真偽がない状態(決まってない状態ではない)である未来についてのみではないのか?
    <!-- Message No.001725-->

    [74] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:  投稿日: 03/04 Sat 16:14:33 
    過去は既に決定されているが、
    嘘で覆い隠し覆す事もできる。
    嘘も百回言えば真実と認識される。
    近隣諸国を見よ!
    <!-- Message No.001726-->

    [75] 感覚報告  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/04 Sat 16:46:31 [認識ID:DGgmHck]
    本日、非性的萌えが、単に小さくて幼いものを非性的脈絡においてかわいいと思うこととは異なるのではないかという感覚が生じた。
    それは『幻想水滸伝V』のノーマという登場人物に対する感情に基づいてのことである。
    ただし言語化はできない(し、できるようになる予定もない)。
    <!-- Message No.001727-->

    [76] 抽象的議論  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/05 Sun 07:33:44 [認識ID:DGgmHck]
    日常言語における倫理に依拠する人は、倫理に反した人を攻撃すべきであると考える。ここでは、それに意識的かどうかは問題ではない。実際にそうしたことを行っていることが重要なのである。
    彼らの言う倫理に反する行為は肉体的攻撃や盗みなどの間接的な精神的攻撃が多く、そうした行為を行った人に対する攻撃は必ず直接的な精神的攻撃である。
    ここで、彼らの大部分は、古典的二言論のように肉体と精神が別々に存在しているとは考えているのではなく、肉体が精神を生じさせる〔意識の主観性を認める〕という立場、あるいはもっと進んで精神は肉体である〔意識の主観性を認めない〕という立場を採用している。ということは、精神的攻撃は肉体的攻撃と近い意味合いがあると認めていることになる。そして、そうであるにもかかわらず場合によっては精神的攻撃を行うことを認めている。これは矛盾している。日常言語の倫理に根差すならば、いかなる場合であっても他者を攻撃してはならないはずである。
    そもそも、間接と直接の別があるとは言え、同じ精神的攻撃のうち、あるものは許容、あるいは積極的に受容し、他のものは否定、あるいは積極的に排撃するというのは矛盾している。
    また、彼らは倫理に反しなくてもしばしば直接的な精神的攻撃を行う。たとえば、彼らですら納得する直接的な精神的攻撃に、男性中心主義的社会における女に対する社会的抑圧がある。したがって、日常言語における倫理に依拠する人は矛盾している。
    さらに、彼らは暴力団に対しては攻撃の手を緩める、あるいはまったく攻撃しないという寛容さを見せるが、一般社会の犯罪者に対しては徹底的に攻撃するといったように、同じ種類の犯罪であっても、それを行う人を選別している。これはご都合主義的である。
    以上より、日常言語の倫理が(主として嫌悪、恐怖、愉悦といった)感情およびその発露でしかないことが理解される。
    そのようなものをなぜ絶対化できるのか。
    <!-- Message No.001730-->

    [77]   投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/05 Sun 07:38:34 [認識ID:DGgmHck]
    「他者を殺してはならない」理由として、大多数がそう思っているのだから、それは本能であると主張する場合がある。
    このとき、まず、大多数が思うことが本能であることを証明する必要が出てくる。
    次に、本能に従わなければならないという命題が絶対化し得ることを証明する必要がある。
    この2つに有効な回答を与えられなければ、「他者を殺してはならない」というのは各人の信念でしかない。
    わたしも一般人だったころは周囲の影響からそう考えていたが、それが本能だとすれば、なぜ今はそう思えなくなったのだ。
    わたしは、これまでいわゆる劇的な人生などとは無縁であった。本能はそういった刺激の少ない環境でも変容するものなのか?
    だとすれば、そんなに簡単に変わってしまうものに依拠しなければならない必要性があるのだろうか。
    また、本能に従わなければならないと言いつつ、性欲という本能に忠実に従うことは忌避するというのはどういうことだろうか。
    <!-- Message No.001731-->

    [78] 新しい世界  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/05 Sun 10:46:01 [認識ID:DGgmHck]
    倫理を絶対化することはできないと認めた世界においては、「他者を殺してはならない」ことについて他者に許可することも否定することもできない。
    なぜなら、「他者を殺してはならない」かどうかは真でも偽でもないためである。
    できるのは、ただ自分のなかで自分に対して許可するかどうかの判断である。
    たとえば、わたしが人を殺した場合、わたし以外の誰かは、それについて嫌悪、恐怖、愉悦などの何らかの感情を抱くこととそれに基づいた行動をする、あるいは何も行動しないという選択をするほかない(ここでの行動には、「他者を殺してはならない」という言論を展開することは含まれない)。
    <!-- Message No.001732-->

    [79] 閃き  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/05 Sun 10:59:14 [認識ID:DGgmHck]
    本能が生を選択したとしても、それと「〜をしてはならないのはなぜか」(たとえば「他者を殺してはならないのはなぜか」)と問うこととは矛盾しない。
    なぜなら、本能は無意識の働きであり、したがって本能を持ち出すのは原因を説明しているのに対して、先の問いは意識があることによって生じた理由を追究する性質を帯びているためである。
    本能では理由を説明することはできない。
    理由は意識がない限り生じないのである。
    それ以前に、一般人が「他者を殺してはならない」と主張するのは、社会的・文化的脈絡においてであって、生物的・生理的脈絡ではないはずである。
    「他者を殺してはならないのはなぜか」というのもまた、社会的・文化的脈絡であるから、その問いに対して本能を持ち出すのは議論のすり替えである。
    <!-- Message No.001733-->

    [80] 戦術level 2  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/11 Sat 21:51:56 [認識ID:DGgmHck]
    ●哲学は実生活に役に立たないから無意味である。
    ●オタクは犯罪者予備軍だから死ね。

    こうした言明に対して、単純な反対意見を出すと敗北は見えている。
    この場合の単純な反対意見とは次のようなものである。

    ●哲学は論理力を鍛えられ、論理力を鍛えれば実生活に役に立つこともあるから、意味はある。
    ●オタクは日本経済の一翼を担っているから存在価値がある。

    こうした、相手の土俵に立った反論を行ってしまうと敗北するのは、現在における価値は多数派によって決定づけられているためである(哲学者だか哲学研究者だかがこの種の反論を行っていて驚いた経験がある)。

    こういう場合の適切な戦術は、まず価値というものが絶対化され得ないということを言及し(あるいは絶対化され得ると主張するならばそれを証明せよと言い放ち)、次に絶対化され得ないものをご都合主義的に絶対化したうえでそこに依拠した言明は無効であると宣言することである。
    つまり、相手の言明の背後にある脆い拠りどころを攻撃して、突き崩してやるのである。
    <!-- Message No.001741-->

    [81] びんちょうタン  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/12 Sun 03:37:05 [認識ID:DGgmHck]
    TBS系列でほのぼのしたかわいさを感じられるアニメを見た。
    http://www.tbs.co.jp/bincho/04story/story.html [source]

    MADLAX(6〜13巻)
    一騎当千(全7巻)
    BLEACH(全26巻)
    月詠−MOON PHASE−(全13巻)
    極上生徒会(全7巻)
    ストロベリー・パニック!(全7巻)
    びんちょうタン(全7巻)
    Rozen Maiden(全6巻)
    Rozen Maiden −トロイトメント−(全6巻)
    地獄少女(全13巻)
    カレイドスター(全16巻)
    機動戦士ガンダムSEED(全13巻)
    機動戦士ガンダムSEED DESTINY(全13巻)
    BLOOD+(全26巻)
    NARUTO(全48巻)

    とりあえず、最低でもこのぐらいは借りたい。
    問題は、金銭よりも借りる場所。レンタルビデオ店を基準にして住居を探すわけにもいかんし。
    <!-- Message No.001742-->



    [84] 矛盾の発見に余念がない  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/18 Sat 05:18:35 [認識ID:DGgmHck]
    高収入者から(今よりも)より高い割合の税金を徴収するシステムを採用すれば彼らが外国へ行ってしまうというのが本当であるものとする。
    ニートが集団的に攻撃されるのは、社会の担い手になることから逃避するためである。
    ここで、税金を支払うのは社会の担い手となることであるとされている。
    高収入者がより高い割合の税金を徴収されるようになる社会において、その国から高収入者が出て行くことは、社会の担い手になることから逃避することを意味する。
    よって、ニートを社会的に排除するという行為は矛盾である。
    <!-- Message No.001747-->

    [85] 芸術、逃避、矛盾  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/18 Sat 05:23:36 [認識ID:DGgmHck]
      芸術の本質は、絶対化し得ない何かを共同して絶対化し、それを理解しない、すなわち優れていると見なさない者を見下すことによって、自らを慰めることである。
      昨今の、服装に対する一般人の態度もしかり。場合によっては、科学ですらそのようにaccessory化してしまっている。というよりも、頭の弱い者がそのようにしてしまっている。
      要するに、社会心理的な地位を決定づけるための要素でしかないのである。
      彼らは、同調圧力を働かせることによって、それに従わない者を集団で排除しようとする。このとき、同調圧力に従順になることを逃避と呼ぶ。そして、そのような逃避行動を取る者が現実逃避する者を集団で排除しようとする。頭が弱いため、同種の行動を取っていることに気づかないのである。
      しかも、現実逃避を忌避する者が現実逃避していないかと言えば、そうでもない。たとえば、槍玉に挙げるようで、その点については申し訳ないが、分かりやすい例であると思われるため、取り上げさせてもらえば、チャンコロ(2ちゃんねるに対して高いloyaltyを持つ人びとの意)である。大部分のチャンコロは、「あらゆるものごとに対して本気にならなければ完全に相対化し得る」とする態度(しかし、こうした態度を有する人びとのほとんどは絶対主義者である)や「すべて笑い飛ばしてしまえ」という態度を有しており、かつそうした態度を発露させなければ負けであると考えているある。なぜ敗北であるのか。格好が悪いという相対的な感覚の絶対化を前提として、ものごとに対してまじめに接することが間抜けに思えて、格好悪いためである。あるいは、より直接的には、まじめに接することで現実を直視してしまうことが不安なのである。
      極めつけは、彼らの多くは、他方でEQという語を選好し、それに基づき他者を攻撃すると言ったように、二重基準を採用している。EQなどという語は、すべてのものごとを笑い飛ばして済ます者には使用し得ない。
      なお、こうした考えは実存主義や人間中心主義を表明するものではないため、勘違いしないでもらいたく候。
    <!-- Message No.001748-->

    [86] 過干渉  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/18 Sat 08:31:09 [認識ID:DGgmHck]
      現代の日本国における社会的風潮として恋愛をしなければならないというものがある。また、現代の日本人の多数派は、恋愛ができていない人びとが実際には恋愛がしたいにもかかわらずそれを押し隠しているとして、彼らを集団的に攻撃する(これは、絶対化し得ないものに基づき、他者を貶めることによって自らの優位性を獲得あるいは維持しようとする態度から発生するが、ここでは置いておく)。
      ここでは、これらに対する、わたし個人の考えを述べることにする。
      まず、多数派とわたしの間には、恋愛という語の捉え方の違いが見られる。多数派の言う恋愛(以下、「恋愛」と記述)は、性欲と支配欲と幻想と欺瞞によって支えられている。幻想とは何か。1つは、性欲や支配欲がないという意味あるいは性欲や支配欲以外の何かという意味での純粋な恋愛があるとすることである。もう1つは、多分に政治性を孕んでいるにもかかわらず、純粋な恋愛はあるとすることである。欺瞞とは何か。1つは、一方で即物的な関係性を重視しているにもかかわらず、他方で先の幻想が幻想でないと考えることである。もう1つは、直接的な支配欲よりもcommunicationを重視せよという考えが、間接的な支配欲であるにもかかわらず、それを支配欲と見なさないことである。わたしは、恋愛から幻想と欺瞞を排除する立場を採用している。わたしはまた、支配欲についてはわたしの望む仕方で存在しなければ恋愛とは見なしていない。
      したがって、恋愛を望んでいないというわたしの主張に対する多数派の反論は失敗に終わる。なぜならば、わたしは、たしかにわたしの言う恋愛(以下、<恋愛>と記述)を望んでいるが、「恋愛」など望んでいないためである。たとえば、ある18禁game企業が倒産した際に、その企業が制作した18禁gameで流れる歌や曲を収録したCDの価格が、正規価格の10倍の30万円で取引されるようになった。わたしならば、たとえその音楽CDに収録されている音楽が非常に好きで、かつ30万円が手元にあったとしても購入する決心がつかないと思うが、ここでは悩んだ挙句に購入したものとしよう。最初のうちは、嬉しさが勝り、その音楽CDを聴きながら、興奮するであろう。しかし、時間の経過とともに、後悔の念や自責の念が込み上げてくるのは必至であると思われる。そして最終的には、後悔しか残らないことになるであろう。「恋愛」についてはより深刻である。というのは、わたしにとって「恋愛」を求めるなどという行為は、10円で販売されている菓子を1000万円で購入するようなものだからである。すなわち、わたしにとって、<恋愛>はきわめて望ましいが、「恋愛」はむしろこちらから丁重にお断り申し上げたいのである。
      次に、恋愛(「恋愛」と<恋愛>の双方)を別の視点から眺めれば、恋愛が趣味という領域に分類されるということが分かる。そして、基本的には、趣味については他者が干渉すべき問題ではない。実際には、他者を殺傷することなどが趣味である場合には議論の余地があるが、少なくとも恋愛(「恋愛」と<恋愛>の双方)の場合には、単なる個人の問題である。これに異論がある人は、たとえばわたしがあるANIMEを見ないという選択を行ったときにも、わたしを非難しなければならなくなるが、実際には完全に放置されるであろう。したがって、恋愛をしなければならないという風潮はご都合主義的な、押しつけがましい態度にほからない。
      人は、<恋愛>を望む限り、「恋愛」はできないと言う。そのとおりである。しかし、だからどうしたというのであろうか。わたしはずっと、(<恋愛>は望んでいるが)「恋愛」など望んでいないと言っているであるが……。
      最後に、究極的な反論をしよう。多数派は、ものごとが自分の思いどおりになるなどと思うなという持論を展開する。そして、わたしは、<恋愛>を望んでいるが、<恋愛>が現実世界において成立するなどとは思っていない。したがって、多数派はわたしの考えを支持しているのである。ここにおいて、多数派が恋愛をしなければならないと主張するのは矛盾することになる。
      ここで、思いどおりになるように努力しなければならないという主張がなされることがあるが、これは正当性のない根拠に基づいた主張であるという理由によって退けることができる。そもそも、わたしが<恋愛>を望むと言うとき、それは経済的観点から見た多数派が億万長者になりたいと言うのと同じほどの強度しか持っていない。彼らは、単に金銭を獲得したいのではなく、楽で、かつ悠々自適の生活をしたいために金銭を欲するのである。したがって、彼らの主張は、少なくとも現実世界では成立不可能である。<恋愛>をしたいという主張もまたこれと同じである。成立不可能とは成立する可能性がないということであるから、成立不可能なことに向かって努力する意味はない。価値については、努力それ自体を選好する人にとってはあると思われるかもしれないが、実際には、成立不可能なことを実現するための努力を想定することはできないため、云々することはできない。
      多数派は、他者のことを理解しようとしなければならない、あるいはまた他者のことを考えなければならないとして他者を排除することが多いが、実際に他者のことを理解しようとせず(ここでは、わたしの恋愛という語の捉え方を無視しており)、また他者のことを考えていない(ここでは、他者に害にならない種類の趣味の問題に干渉している)のはいったいどちらであろうか。
    <!-- Message No.001749-->


    [88] 環境問題  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/20 Mon 11:54:30 [認識ID:DGgmHck]
    環境を破壊するような行動をしてはならない理由として、将来の人間のことを考えていないというものがある。
    これを解決するには、今すぐにでも子どもを産むのを一切止めてしまうことである。
    人間が存在し続けなければならないという信念に絶対的な根拠がなく、本能のなかには逆らうことも可能な種類のものもあって、人類を存続させようという志向はそのうちの1つである以上、それで完全に解決することができるぞ。
    <!-- Message No.001757-->

    [89] 矛盾の発見に余念がない(2)  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/21 Tue 08:37:09 [認識ID:DGgmHck]
    一般人の多くが仕事を偏重するのは、社会に貢献しなければならないという、正当性のない信念に端を発している。
    社会に貢献しなければならないとすれば、現状では仕事に打ち込むほかないため、強引に仕事に楽しさを求めようとするのである。
    しかし、先ほども述べたが、社会に貢献しなければならないという信念には正当性がなく、したがって絶対化し得ないにもかかわらず、一般人はそれを数の力で見かけ上の絶対化を図っている。
    絶対的な根拠を求めるのは絶対者を求めることに等しい。しかし、一般人の多くは宗教および宗教者を蔑視しており、矛盾している。
    <!-- Message No.001759-->

    [90]   投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/21 Tue 19:38:57 [認識ID:DGgmHck]
    (1)
    [73]についてであるが、これは各存在者にとっての現実世界については何ごとも言えないというだけであった。
    「あのとき〜していたら、……だった」とは、現実世界についてではなく、可能世界についての言及なので、どこも間違ってないのである。

    (2)
    わたしは、反倫理という地点に到達してからは、実践としての哲学でさえも相対的に判断しなければならないということに気づいた。
    ただし、自分が動物よりも優れていると感じてしまう人は、少なくとも実践としての哲学をしようとしなければ矛盾することになるので注意が必要だ。

    (3)
    弱い絶対主義(限定的特殊相対主義)においては、絶対的な根拠以外の根拠に基づく命題は絶対化することはできないとされる。
    しかし、これは一般的な相対主義の立場を宣言するものではない。
    わたしが部分的に採用している相対主義は、絶対的な根拠以外の根拠に基づく命題については他者に対して何ごとも言えないというものである。
    たとえば、「他者を殺してもよい」、あるいは反対に「他者を殺してはならない」という(真でも偽でもない)命題は、他者に対して使うことはできないということである。これらの命題は自分自身に対してのみ投げかけることができる。言い換えれば、「わたしはわたしが他者を殺してもよいと思う」とは言えても、「(誰かが)他者を殺すのも殺さないのもどちらでもいいと思う」、あるいは「誰かが他者を殺してもよいと思うのも、殺してはならないと思うのも自由である」とは言えないということである。
    したがって、感覚あるいは感情と数が結びつくという部分が変わらない以上、現状では、わたしの考える世界においても「他者を殺してはならない」というのが社会的風潮になると考えられる。
    異なるのは、それを絶対化しているかしていないかだけである。

    【参考】
    ▽絶対化することができる命題
    (1)真である命題
    (2)偽である命題
    ▽絶対化することができない命題
    (1)真でも偽でもない命題
    (2)矛盾する命題
    (3)パラドクス命題
    <!-- Message No.001762-->

    [91] わたしとニーチェが一致する点  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/21 Tue 20:03:28 [認識ID:DGgmHck]
    キリスト教徒は倫理を神に根拠づけさせる。  ←ニーチェが批判した。
    一般人は倫理を数に根拠づけさせる。  ←虚構世界内存在が批判した。
    絶対化し得ない根拠に依拠してある命題が正しいか否かを主張する点で両者は同質である。
    <!-- Message No.001763-->

    [92] 他のにはちゃんと目を通していないことをご容赦下さい  投稿者:k3 投稿日: 03/21 Tue 20:34:11 [Chinko]
    暇なので言葉遊びをしますよ。論点窃取はひとまずおいておいて、


    >[84] 矛盾の発見に余念がない
    ニートの場合の「社会の担い手になることから逃避する」事は、社会の一員でありながら「社会の担い手になることから逃避する」事が批判のポイントでしょう。
    社会自体からいなくなる高収入者の場合とは概念が一致しません。(媒概念曖昧の誤謬)

    >[89] 矛盾の発見に余念がない(2)
    絶対者を求める事は宗教の一側面でしかありませんから、一般人(ここでは日本人を念頭に置いている?)が宗教・宗教者を嫌う事と絶対的な根拠を求める事は矛盾しません。


    まぁ、矛盾を指摘すること自体が目的の文章ではない気がするので、別にいいんですが。
    <!-- Message No.001764-->

    [93] 大学入学→1年留年→研修  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/22 Wed 17:14:08 [認識ID:DGgmHck]
    >ニートの場合の「社会の担い手になることから逃避する」事は、社会の一員でありながら「社会の担い手になることから逃避する」事が批判のポイントでしょう。
    >社会自体からいなくなる高収入者の場合とは概念が一致しません。(媒概念曖昧の誤謬)
    ほほう・・・しかし、今いる社会の担い手になることから逃避するということは、逃亡先の社会で今いる社会と同質のことが起こればそこからも逃避する可能性が高いと推測できるのではないのか?
    ということは、広く見れば人間社会から逃避しているとも考えられる。
    しかし他方でニートを・・・。
    ただし、ここでは、逃避することのみを取り上げて批判しているわけではない。
    逃避する者が多くなれば人間社会が成立せず、引いては人類が存在できなくなるが、人類が存在し続けなければならないということが正しいと証明されない限り、逃避を批判したり、非難することはできない(反対に、賞賛もできないし、どちらでもよいとも言えない。つまり、何も言えない)。
    また、個人的には、人類が存在できなくても構わないと感じている。
    なお、こうした考えは、わたしがニートになったときのことを想定して、それを正当化するために持ち出したものではないことを記しておく。個人的には、わたしがニートになってしまうと余りにも親に対して申し訳ないと思っている(社会に対しては何とも思わない。たとえ社会に迷惑を掛けることになったとしても)。

    >絶対者を求める事は宗教の一側面でしかありませんから、一般人(ここでは日本人を念頭に置いている?)が宗教・宗教者を嫌う事と絶対的な根拠を求める事は矛盾しません。
    絶対的な根拠を求めることを批判しているのではない。
    それなら、わたしはわたし自身を批判していることになる。というのは、わたしは論理という絶対であることが自明であるものに根拠を求めているためだ。
    そうではなく、絶対化することができないものを強引に絶対化している、あるいはできるとしても、そのことが自明でないにもかかわらず証明をしない、証明する必要などないという態度を採用していることを批判しているのだ(数の多さが絶対であるのは自明か?)。
    それから、「絶対者を求める事は宗教の一側面でしかありません」については、多神教の場合は比重が小さいかもしれないが、一神教やいわゆるカルト宗教の場合はかなりの比重を占めていると考えられる(何しろ、それら宗教では、絶対者が大前提で、絶対者を設定しないとすべてが始まらないから)。
    なお、わたしが一般人というとき、多くの場合、日本国に在住している日本人のなかの一般人を想定している。
    <!-- Message No.001768-->

    [94] 学歴主義について  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/22 Wed 17:52:13 [認識ID:DGgmHck]
    わたしは、学歴主義者と呼ばれたり、そのように自称する人びと、あるいは学歴社会を受容している人びとの感覚が分からない。
    たとえば、彼らからすれば、わたしの出身校である松山大学に通うこと、あるいはそこを卒業することは恥ずかしいようである。
    しかし、わたしはまったく恥ずかしいとは思わない(むろん、馬鹿にされるのは嫌であるが、それはどのような理由があっても同じことである)。おそらく、定年を迎えた人のうち、少なくとも衣食住については問題ない程度の生活を送ることができている人は、自らの学歴について特に何も感じないか、感じたとしても他人事のようであると推測されるが、わたしもだいたいそのような感じになる。
    だから、たとえばその恥ずかしさに近い状態になるのがどういったときか知りたいのであるが……。

    【注釈】
    ※ 「学歴社会」
      →学歴社会は学歴主義社会とは異なる。学歴主義社会が、(就職において)低学歴(基本的にはいわゆる底辺の大卒であるが、時代によっては中卒や高卒でもあり得る)を標準とし、かつ高学歴であれば確実に優遇措置が取られる社会のことであるのに対して、学歴社会は、(就職において)高学歴であることが標準であり、低学歴の場合には不利になる社会のことである。
    現在の日本社会は学歴社会であると思う。
    <!-- Message No.001769-->

    [95] レオパレス21  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/25 Sat 18:04:17 [認識ID:DGgmHck]
    「敷金・礼金なし」と謳っているが、システム料金と称して1ヶ月分の家賃を徴収している。
    これは、実質的には礼金だ。
    ほかにも共益費が5500円と高く、環境維持費として毎月520円も取られる。
    これに広さを加味して考えれば、一般的な賃貸部屋とあまり変わらない気がする。
    これでテレビ受像機やエアコンの保全費まで取られるなら、許容できない。
    <!-- Message No.001774-->

    [96] ほれ見てみろ。  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/28 Tue 18:05:29 [認識ID:DGgmHck]
    あのバカ家族は、患者の延命装置の取り外しに同意していただろうが?
    わたしには最初から分かっていたんだ。
    患者の家族が嘘をついていることが。
    だから、一般人はダメだと言っているんだよ。
    <!-- Message No.001777-->

    [97] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:FUCK_BOY 投稿日: 03/28 Tue 19:56:13 [認識ID:gtAyOFO]
    私はそのレオパレスに今度部屋を借りることになっています。
    <!-- Message No.001778-->

    [98] Re:虚構世界へ行くために  投稿者:k3 投稿日: 03/28 Tue 22:50:41 [Chinko]
    私も藤原紀香好きですよ。
    <!-- Message No.001779-->

    [99] ニュース  投稿者:虚構世界内存在 投稿日: 03/29 Wed 05:44:02 [認識ID:DGgmHck]
    (1) 姉歯元建築士の妻が自殺した
    ABCテレビ(テレビ朝日系列)のワイドショーでコメンテーター〔バカ〕が、姉歯元建築士の妻が自殺したということについて、「一番の犠牲者であり、姉歯元建築士の罪の重さが云々」と語っていた。
    しかし、自殺したのは一般人からの精神攻撃が最大の要因である。
    そうであるにもかかわらず、自殺の最大要因を姉歯元建築士の行動に求めており、自分は倫理の側に立っている。
    姉歯元建築士が要請を受けて違法行為をしたのが発端であるという声が聞こえてくる。
    なるほど。犯罪者の家族に対する攻撃には正当性があり、したがって犯罪者の家族を攻撃することは倫理であると言いたいらしい。


    (2) フランスで300万人規模のデモがあった
    どんどんやれ。
    そして殺すのだ。
    ドイツでも起こりそうだ。
    起これ。
    日本でも起これ。
    ただし、わたしは参加しないつもりである。
    血管が脆いので、参加すると、血圧が上がって、血管が裂ける。
    逆に、傍観していると静かに興奮し、気持ちよくなるのだ。


    (3) ナカちゃんが名誉市民になった
    あほくさ
    <!-- Message No.001781-->

    [100] 名称未設定  投稿者:FUCK_BOY 投稿日: 03/29 Wed 22:59:21 [認識ID:gtAyOFO]
    >k3大兄
    私も好きでした。でも部屋には居ませんでした。
    悔しいです。

    虚構世界内存在さんの話は、まだ私には早すぎるようです。
    何を言ってるのか解らないところがあります。
    <!-- Message No.001782-->



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