目覚めた男の視界に最初に入ったものは、青い空だった。
 「……、ここは…」
 乾きに張り付いた喉から掠れた声を出し、ゆっくり起き上がると手を頭上にかざす。
 際限なく広がる空へ伸ばされた手は浮かんでいる雲を掴めそうに見えたがまったく届かず、雲は穏やかな風に流されてただそこに在るのみだった。

 風が靡き、男の髪が揺れる。
 空には雲がまだらに浮かび、時折太陽を隠していた。
 街外れの小高い丘の上で寝転んでいた男が何をするでもなく流れる雲の行方を目で追っていると、遠くからザクザクと草を踏みしめる足音が聞こえてきた。
 音は数メートル離れた場所で止まり、遠慮がちな声が投げかけられる。
 「ここ、いいかな」
 声のした方に視線だけ動かして確認すれば、人の良さそうな笑みを浮べたPCが居た。
 木箱を背負い、首にかけているタオルで額の汗を拭うその男は白いYシャツと長ズボンの簡素な姿だったが、白色の髪と紅の瞳が普通のPCではないことを表していた。
 まるで、今にも燃え出しそうに見える瞳に、寝ていた男は巷の評判を思い出す。
 赤や緑といった人間ではありえない色の目は、違法プログラムを使用していると自ら主張しているようなものだった。その為、世間からロクデナシと呼ばれ疎まれ、好んで関係を持とうとするPCは居ない。
 「………」
 だが、男は何を言うでもなく黙ったままだった。
 それを無言の許可だと受け取った白髪のPCは、背負っていた木箱を草の上に下ろすと一メートルばかり距離を取って腰を降ろす。
 「ここは良いところだな、風が気持ちいい」
 白い髪を揺らしながら呟くPCに、寝転んでいた男はようやく口を開いた。
 「あんたは、行商人か」
 「そうだが。何か気になることでもあったか?」
 降ろしていた木箱に手を伸ばすと一つの引き出しを開け、中からビー玉ぐらいの大きさの色とりどりの粒を出す。空に向けてかざせば光を受けて、静かに輝いた。
 「こいつは使うだけで肌や髪の色を変えるパッチ。俺も随分と世話になってる」
 「眼の色を変えるのはないのか」
 「何色がお望みなんだ?」
 「あんたみたいな赤色が良い」
 懐から煙草を抜き出し火を付けたPCは、バツの悪そうな顔をした。
 「悪いな、今ちょうど切らしてるんだ。青や緑、黒や茶色ならあるんだが」
 「……、そうか」
 男はつまらなさそうに呟くと、口を噤む。
 「気分転換でもするつもりかい」
 「そういうつもりじゃないが、それに近いかも知れない」
 はっきりしない言葉にPCは首を傾げたが、それ以上深く尋ねることはせずに粒を元の場所に戻すと草の上に身を投げ出した。
 「なぁ、ここで何をしてたんだ?」
 「別に何も」
 「ははぁ、分かった。日向ぼっこだろ」
 ぶっきらぼうに言われる言葉を勝手に解釈し、PCは納得する。
 男は一瞬だけ迷惑そうに顔を顰めたが、やはり何も言わずに空を眺めていた。
 何かあるのだろうかと、PCも空へと視線を向ける。
 青い空にはいくつもの雲が浮かんでいて、時折太陽を隠しながら風に吹かれて右から左へと移動していた。様々に変わる形を見るのは飽きないが、さして面白いものでもない。
 「……」
 横目で男を見れば、相変わらず空に視線を向けたままだった。
 だが、その瞳はどこか空ろで、雲の姿など映っていないかのように見える。
 数十分ほど時が流れ、すっかり短くなった煙草の煙が風に揺られて消えていくのを見ながら、傍に置いていた木箱を背負い直した白髪のPCは立ち上がった。
 PCが去ろうとしているのを知った男は、声をかける。
 「次は、どこへ行くんだ」
 PCはにっこり笑うと青い空に広がる雲を仰ぎ見た。
 「別にどこへとも決まってないさ、風の吹くまま、気の向くまま」
 「辛くはないか?」
 「そんなことはないさ。辛くなったら、その時は何かすぐに出来そうな目標を決めればいい」
 「なるほどね」
 確かに悪くない手段だ、と男は思った。当ても無く旅をするのに疲れたら、簡単でも何でも良いから目標を決める。そうすればいい気分転換になるだろう。
 さらりとその言葉が出る辺り、白髪のPCは随分と旅慣れしてるらしい。
 「お前も、一緒にくるか?」
 旅に興味があるのだと思ったPCが箱を一揺すりすれば、中からカランと音がした。
 男はせっかくだが遠慮しておく、と首を振って断る。
 「俺はもう、旅は出来ない」
 しみじみと呟かれた言葉にPCはおや、と目を細めた。
 まるで途方も無い時間をかけて旅を続けていたかのように聞こえたからだった。
 「お前さん、旅をしたことがあるのか?」
 「あぁ、あるさ。ネットワークの端から端を」
 言葉の裏に隠された真意を知りたいと思ったPCが問いかければ、簡潔な文面とは裏腹ににわかには信じられないような内容を、男はさらりと喋った。
 「おいおい、冗談だろ。どうやって端から端を巡ったんだ」
 「信じたくなかったら信じなくてもいいさ、だが、俺はもう、旅したくてもする場所が無いんだ」
 日々膨脹し続ける仮想世界の隅から隅を旅するなど不可能なことだ、とPCは思った。
 だが、それにしては目の前の男から紡ぎ出される言葉には妙な信憑性があって、本当なのか?と尋ね返せば嘘をついても意味がないだろ、と呆れながら呟かれそれはそうだ、と納得する。
 「だから俺は、旅が出来ない」
 あんたの申し出は嬉しかったけど、一度行った場所には行かない主義なんだ、と続けた男は半分狐につままれたような顔をしている白髪のPCに別れの挨拶なのか、手をヒラヒラと振った。
 「お前は、ネットの端から端まで旅した、って言ったな」
 「あぁ、そうだ」
 「なら、裏の世界に行ったこともあるのか?」
 上から降ってきた声に男が反応するより早く、白髪のPCは何かの破片を差し出した。赤茶色に煤けているそれは歪な形をしていて、古代ギリシャで使われていたような文字が刻み込まれていた。
 「…これは?」
 「UGキー」
 差し出された破片を眺めるだけで男は大した興味を示していなかったが、その一言に僅かに顔色を変えた。ゆっくり起き上がり、PCの顔を見ながら呟く。
 「あの、コネクトキーか」
 「その反応…、どうやら端から端までって言ってもこの世界には行ったことがないみたいだな」
 「まぁな、俺には縁がなかったらしい」
 素直に白状する男に声を上げて笑ったPCは、手にしていた破片を手渡しながら言う。
 「あげるよ、お前さんに」
 それだけ言えば、男は驚いた顔でPCと渡された石碑を交互に見比べた。
 「本当にいいのか?これは珍しいものなんじゃ…」
 「大丈夫だよ、俺はもう一つ持ってるから」
 懐から取り出して見せたのは、男が持っているものとは多少形が違ったが間違いなくUGキーだった。
 それに、男の表情が少しばかり緩む。
 渡されたコネクトキーを2.3回撫でてグッと握り締めると、反動を付けて立ち上がった。
 乱れた髪を撫で付けながら纏わりついた草を払おうと身体を叩く。
 「ありがとう。これでまた、旅が出来る」
 少し頭を下げて礼を述べる男の表情に、PCは思わず目を疑った。
 さっきまでのどこか空ろだった瞳はどこにもなく、代わりに目標に向けてただ一心不乱に突き進もうとする強い意志を宿した瞳に変わっていたからだ。
 「気にするなって、この世界は助け合いで出来てるからな」
 男の変わりように驚きつつも元気が出たならなにより、とPCはにっこり笑う。
 「お前は、何かの目標があって旅してたみたいだな」
 「あぁ、あまりに漠然とし過ぎていて難しい目標だがな」
 伏せ目がちで紡がれる言葉から、あまり褒められた目標ではないのだろうなと何となく思ったが、それ以上の内容について問う気はなかったので無難な言葉を選んだ。
 「そうか…、その世界で辿り着けることを祈ってるよ」
 「ありがとう。この世界に無かったらその時こそは、本当に諦めるつもりだ」
 手にしていた碑石を太陽にかざして、自分自身に言い聞かせるように呟く。
 黙って手を上げた白髪のPCは、力を込めて男の肩を叩いた。
 「頑張れよ」
 「あんたもな」
 二人がすれ違った瞬間、今まで穏やかに吹いていた風が強く吹いた。
 白髪を揺らしながらPCが振り返れば、男がコートの裾をはためかせながら丘を降りて街に向かっているのが見えた。姿が完全に見えなくなるまで、その場で佇み待つ。
 やがて、男を見送り歩き出した彼は、独り呟いた。
 「……、縁があったらまた会おう」
 その呟きは、どこへ流れるかも分からない風に乗って静かに消えていった。

 男は今、身長の何十倍もの高さで聳え立つ、赤黒いゲートの前に立っていた。
 手に握られているのは、コネクトキーと呼ばれる石碑の欠片。
 ゲートに触れようとした瞬間、一部分が陥没すると何かを埋め込められる空洞が出来た。
 「アクセスキーもしくはコネクトキーを提示してください」
 無機質な機械の音声に手にしていた石碑を空洞に近づけるとそれは飲み込まれ、同時にゲートが赤い光を放ち始める。
 「コネクトキー:No.24930を承認、使用者の名前を登録して下さい」
 徐々に開いていくゲートを前に、男は巷で囁かれている”アンダーグラウンド”の噂を思い出していた。
 不正アクセス、人身売買、脱法ドラッグ、など例を挙げればキリが無いほど犯罪に満ち溢れているその世界は、この世にある全ての悪意を凝縮して詰め込んだかのように真っ暗な場所。
 ”まともに生きたければ近寄ってはいけない世界”
 それが、巷で言われている”アンダーグラウンド”のイメージだった。
 「………」
 だが、男は躊躇しなかった。
 ゲートの先を見据え、最後の希望をかけた世界に向かって、己の名前を言う。もっともそれは、自分の名前すら覚えていなかった男が自分自身に勝手に付けた、偽りの名前なのだが。
 「俺の名前は…、フェイ、だ」
 男が名乗ったのとほぼ同時に、ゲートが完全に開く。
 「No.24930:フェイを登録しました、先へ進んでください」
 機械に声に促されるままに地面を勢いよく蹴り、ゲートをくぐる。次の瞬間、身体の周りに緑と青で彩られた転送ゲートが現われ辺りがフラッシュしたかと思うと、彼の姿は消え失せていた。
 男が転送されて行ったのを確認したゲートは、鈍い軋んだ音を立てながら扉を固く閉ざしていく。バタンと一際大きな音を立てて扉が完全に閉まり施錠されると、周囲に静けさが戻った。
 フェイの、短くて長い旅が始まった。



Good luck on your travel
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#01 旅の始まり




#02 Gehoo!Japan へ