僕がある言語の不規則変化名詞(正確には格によって語幹が変化するだけで、変化語尾が不規則な訳ではない)を暗記していた日の事。
その夜も遅くまで単語を暗記して、ウヘリとしながら就寝したのでした。さすがに疲れたのか、煙草を吸っていると舟のようにゆらゆらと地面が揺れていました。気持ち良くない事もないけれど、長くこのままでいるとだんだん気分が悪くなってくる。
床に就くと間もなく睡眠に入り、僕は夢を見ているようでした。夢の中でも僕は単語と文法をひたすら暗記していました。しかし、学習している内容が問題で、冷静に考えてみるとデタラメな単語ばかりだったのでした。夢の中では客観的であっても、冷静であり続ける事は困難です。意識が冷静になる事はつまり夢から醒めると同義であります。やはり、僕はその間違いだらけの単語をひたすらに暗記し続けていたのでした。
起きてみると案の定、記憶はすっかり混乱していました。夢の中で憶えた滅茶苦茶な単語と現実で憶えた単語がごちゃごちゃになってしまっていたのです。
しかし、今になって思い返してみますと、あの言葉は何か別次元から与えられた特殊な言語だったのかも知れない。エノク語とかルルイエ語とかその類の。今夜もあの言語の続きが憶えられるでしょうか。……いや、冗談ですよ。
例によって風呂に入っていたら急に思いついたのでメモしておきます。アルキメデス以来、風呂は霊感の宝庫であるようです。
刑法によって強姦罪が定められているように、少なくとも現代日本の倫理観からすると、強姦というものは倫理的に許されないものとされている。その理由には色々あるだろうが、人権の問題を持ち出せばまず十分だろうか。筆者もまた、個人的な意見を謂えば不寛容派である。
しかし、一方で強姦は今も世界中で起こっており、行為者(多くは男性)にとってある種の魅力さえ持ち得る事も事実として認めなければならない。では、何故人間は性交をするに及び、強姦という手段を選び、更にその行為自体に魅惑を感じさえするのだろうか。この問いに答えるのは実は案外難しい。今回は、そもそも強姦という行為の本質は何なのかを考え、そこからいくつかの問題について述べてみる事にする。
大辞泉の「強姦」の項には、暴力・脅迫などによって、強制的に婦女を犯すこと。暴行。
とある。なお、参考として述べておくと、本邦の法的な定義・解釈によれば、暴力には酒等を飲ませて抵抗不能の状態に陥らせる事も含まれ、要するに被害者の自由を奪うという意味になる。強制わいせつでは被害者は男女ともに認められるが、強姦では被害者は定義上常に女性とされる。他方、加害者については必ずしも男性に限られない。(以下、加害者と行為者という語は、法的責任を問われる者としての加害者と性行為自体の行為者という意味で使い分ける)
上で述べた定義を更に細かくみていくと、まず被行為者を抵抗不可能、或いは著しく困難な状況を奪う、つまり自由を奪うという行為が前段階としてある。そして、婦女を犯す、即ち性行為がある。前段階の、被行為者の自由を奪うという行為によって、和姦と強姦は区別せられる。
広義の暴力も性行為も、他者の領域の侵犯として抽象化出来る。強姦においてその行為は終始一貫して一方向の侵犯(暴力)としてまとまっている。他方、和姦においては双方向の侵犯としてまとまっている、と言いたいところだが、性行為に目を向ければ、多くの場合どちらかがイニシアティブを握っていると考える方が自然であろうか。
行為そのものが暴力的であり、一方向の侵犯であったとしても、それを暴力的と感じ、侵犯であると判断する主体が存在しなければそれは単なる行為そのものでしかあり得ない。即ち、ある種の行為を暴力であると判断するだけの精神を持っていなければ、強姦や暴力というものは存在しない。
禽獣の性行為というものはそもそも強姦であって、強姦というものは性行為の根源的な姿なのだと些か護教論めいた話も耳にするが、上の原則に立てば暴力を認識するだけの精神を持たない獣にとっては(獣の性交が人間から見て強姦であるという主張自体疑問ではあるのだが)強姦という概念自体が存在しないという事になる。
とすると、強姦というものの本質は性行為そのもののというよりも、性行為に単なる生殖行為以上、排出以上のものを見出した人間の精神にあるという事になる。
強姦はしばしば人間、とりわけ男性の征服欲や支配欲と結び付けられ、文化としては男性が女性を所有する父権制に原因が求められる。
他者の領域の侵犯という行為はとりもなおさず「征服」であり、そこに支配欲が働くであろう事も論も俟たない。しかし、なお見落としている点を挙げるとすれば、それは即ち征服や支配といった暴力の結果ではなく、暴力そのものに対して感じる一種の憧憬であり、混沌とした甘美な陶酔である。人間は破壊欲や征服欲を満たす為だけに猟奇を好みはしないといえば良いだろうか。
もう一つの父権制という文化に原因を求める動きであるが、この件に関しては即断しかねる。というのは、こうした強姦・レイプを真剣に考えると称する団体にフェミニズムが絡んできている場合が多く見られ、我々は彼らのジェンダー論に囚われ過ぎてもいけないからである。より慎重な文化史的考察が必要であるという意味で、(妥当性を認めつつも)今回は保留にしておこう。勿論、文化的な要素が重要な役割を果たしている主張自体は確かに思われるし、強姦における精神性を重視する立場からも支持されるべきである。
社会における男性の征服的・支配的指向という常態(という仮定)とは別に、なお留意しなければならないのが、強姦という行為自体に非日常性があるという点である。もっとも、これは全てにおいて当てはまる訳ではないし、強姦、或いはレイプの定義が広くなっていくに従って、強姦は非日常性を欠く事になる。
にも拘わらずこの点を強調したのは、非日常性に惹かれるという人間の性質を踏まえての事である。非日常性は行為において精神を刺激し、人間をより高い陶酔の淵へと誘い込む。
非日常性を広義の異常性と言い換えても良いかも知れない。広義の異常とは、常とは違う事であり、常とは即ち日常であり、異常とは非日常なのである。そうした広義の異常性の中に、狭義の異常性というものがある訳だが、今回はその中でも社会の枠組みにおける異常性というものについて触れておく。社会の枠組みにおける異常性とは、例えば掟や法律によって表象されるもので、共同体の合意や上層部の事情によって定義されるイリーガルな概念である。日本における強姦というものを見てみれば、既に述べたように強姦罪という法律が存在し、狭義の異常性が認められる訳である。
強姦を一方向の侵犯として捉えた時、行為者にとっては、この共同体や国家という枠組みが侵犯されるべき「他者」として存在する。行為者は、強姦という行為によって、婦女一個人の「他者」を侵犯するのみならず、共同体をも侵犯するのである。行為者にとって、共同体によって定められた「異常性」は、行為が行われる可能性を制限するかも知れないが、行為そのものの可能性を増し加える事になる。
法というものは、その共同体の倫理を体現するものであるが、例え法として確立されていなくても、この「倫理」自体もやはり行為者にとって「他者」となり得る。特に、共同体が拡大し、個々人が日常の中で法を身近に感じにくくなっている場合、まず当面行為者の眼前に立ちふさがるのは、この倫理の方であるかも知れない。倫理は共同体の合意としての倫理である場合もあるし、個人の倫理である場合もある。
俗な言い方をすれば、「背徳感」という事になるのだろうか。背徳感が精神に何らかの刺激を及ぼすのである。ただし、この背徳感というものが行為者にとって全てではないし、本質的なものでもない。背徳感は動機や付加価値にはなり得るし、妄想家にとってはそれが全てかも知れないが、実際家にとっては行為そのものの刺激の方が遥かに大きいだろう。
やはり法も倫理も、制限にこそなりはすれ、また制限になるからこそ、行為者にとっては強姦という行為に一層の彩りを加える事にしかならないのである。
さて、巷には強姦を扱ったフィクション・ノンフィクションの作品が溢れている。こうした一連のメディアが性犯罪に繋がる虞は早くから指摘されており、法的な規制が敷かれる事もしばしばである。(国によっては宗教の教義の問題も絡んでくる)特に、作品における被行為者の扱われ方、心理描写の面では批判も数多い。
こうしたメディアが強姦を助長するか否かと問われれば、筆者には分からないと答えるしかない。統計的なデータや現場の調査を丁寧に分析する必要がある。しかし、可能性があるか否かと問われれば、然りと答える。
強姦を扱った情報を得て、それに対して多少なりとも好意的な反応を示す人間(強姦未経験者とする)は、恐らく背徳感やイリーガルな魅力にとらわれるだろうし、空想の中で征服欲を刺激されるだろう。しかし余程空想力が逞しくない限り、それは実感を伴なわない空虚な刺激である。彼の欲望は満足させられないが、そこから一足飛びに行為に移るにはなお法や倫理、そして「他者」の領域に対する根源的な恐怖が足枷になる。だが、なお少数の者が実行し得る可能性は否定できない。もっとも、彼がある特定の種類の情報に触れなければ、一生強姦をしなかったかと訊かれると、なかなか難しい。彼が妄想を始める機会は他に幾らでもあるからだ。(ここでは敢えて、先天的な素質については考えない事にする)
なお、フィクション・ノンフィクション、特に前者に集中する批判として、被行為者の心理描写、具体的には被行為者が強姦を望んでいるといった類いについて一言附しておくと、筆者の考えではこれは本質的に強姦ではない。実際に被行為者が望んでいるいないは別として、少なくとも行為者が、被行為者がそのように望んでいると考えている以上、彼は強姦者ではなく和姦者に過ぎないのである。控え目に言っても、倦怠期の中高年が性行為に少し刺激を求めてみるのと本質的に変わるところはない。
近年世間を騒がせているアル・カイダ、アル・ジャズィーラ等に含まれる頭の「アル al」はアラビア語における定冠詞で、例えばイスラームも正確にはアル・イスラーム、コーラン(クルアーン)もアル・クルアーン、神を表すアッラーという語はアル・イラーフの短縮形と考えられています。宗教の領域(イスラームでは宗教即生活なので、宗教の領域という言い方はおかしいのですが便宜的に)のみならず、科学の分野でもアルケミーとかアルカリ、アルゴリズムといった「アル」の付いた言葉は沢山残っており日本でも一般に使用されておりますが、翻訳の際に一方でこの定冠詞を省き、一方で残すといった具合に統一されていない印象を受け、何となく気になっていたりします。何らかの理由があってそうしているならばいいけれど。最近は原音に忠実に表記する流行を受けて、アルもそのまま残す方向なのでしょうか。そうなのでしょうか。
それはともかく、故・香田氏の斬首映像が公開されています。えらく手際が良かったので、不謹慎にも感心してしまいました。