2005/03

2005/03/21(Mon): ヴァンピリスムを如何に捉えるか

吸血鬼信仰 vampirism 論を書くにあたって、草稿段階で何度か視座を変更している。まとまった形では二度執筆しており、初めに発表したものは民俗学の成果に影響された代物だった(Web 未公開)。現在公開している稿の第4章はこれを土台にしている。その後、時間の縦糸を中心に、つまり通時態を研究してみようとしたのだが、結局、それは止めて最終的にあのような(微妙な)形に収まってしまった。

吸血鬼事件というのは、要するに死を代表とした厄介事(阿部謹也流に言えば大宇宙であるところの外界に存在する危険)を死者に押し付けて云々という話で、その背後には人間の死との関わり方の問題がある。死者を再び殺すという現象は、死に対する極めてヒステリックな反応と捉える事も出来るだろうし、死(の表象である吸血鬼とみなされた死者)を死の蔓延を防ぐ為に殺すという循環的な構造に神殺しのモチーフを見る事も出来るかも知れない。こうした態度を読み解く為に、アリエス流の飼い慣らされた死がどうとかいう理論を適用してみたり、母系社会から父系社会への移行に伴う生と死の親和性の喪失を仮定しても面白いだろう。しかし、これらの議論は聊か抽象論に走りすぎてしまったり、場合によってはオカルトじみてしまう危険性があった。

そもそも、吸血鬼信仰を死全般に対する人間の態度の変化の中から読み取ろうとするという間違いを犯していたのである。吸血鬼が表象しているのは常態の死というよりも、突発的な死、事故死、あるいは不本意な死、予期しない死と考えるべきではないだろうか。確かに吸血鬼報告に見られる個々の被害者達は、現代の我々から見れば恐らく病死であり、表面上、通常の死と変わるところがない。しかし、彼らにとって原因不明である事と、死が感染していく点が常態と異なる。また、ある意味では最初の犠牲者である吸血鬼は、しばしば不慮の死を遂げた者と考えられた。つまり、吸血鬼信仰を死全般に対する態度の歴史の中に直接位置付けるのは間違いであり、死全般に対する態度の歴史を背景とした上で、その社会の中で不慮の死がいかに捉えられ得るかという視点から論じるべきなのである。

べきなのであるが、果たさなかった。いずれ、書きたいとは思ってはいるのだけれども。

……話の序でに書いておくと、公開している文書中、何度も「祖霊崇拝」という語を用いているが、当時(あるいは現在)の東欧で祖霊崇拝の現象が確認されると言っているのではない。過去に祖霊崇拝があったとか、もしくは祖霊崇拝をしていた民族からの影響であるとか、とにかく何らかの形で吸血鬼信仰の成立過程に祖霊崇拝の存在を仮定しているに過ぎない。

2005/03/11(Fri): 断章・談笑・男娼

僕はネクタイについて常々疑義を抱いていた

布切れを首に巻きつけて何が礼儀だ、笑わせてくれる。一度鏡で自分の姿をよくよく見てみると良い。君はタイを巻いていると思っているかも知れないが、家畜か奴隷の首輪と大差ないではないか。君はそれを首に巻き、私は社会の奴隷ですと公言しながら市中を引き回されているに過ぎないのだ。またそれ故に、いくら息巻いても奴隷の戯言として大方を恕されているに過ぎないのだ。

実際、滑稽だ。

2005/03/05(Sat): 掲示板への転載

ニュースによりますと、対談を転載した投稿を放置した2ちゃんねる管理者(ひろゆき氏)に高裁が転載差し止めと120万円の賠償を命じたそうです。最高裁まで争うのか分かりませんが、今後の成り行きによってはうちも方針を変更する必要がありそうです。

2005/03/02(Wed): 我慢の子

猫舌だけどマゾだからつい我慢してしまい、お茶を飲む度に火傷します。