2005/11

2005/11/29(Tue): 支え合いのなれの果て

という字は人と人とが支え合って……というよくある話をすると、否、支えているのは右の人だけで左の人は楽をしているではないか、というよくある受け答えが返ってきます。確かに両者にかかる負荷は違うのですが、両者共に斜めの状態で、どちらかがいなくなれば一方は倒れるわけですから、支え合っているというのは確かでしょう

しかし、もう少しよく見て欲しい。もし、上のように二つの棒を人間に見立てるとするならば、この状態はかなり不自然なのです。左の人間が仰向けか俯せかは定かではありませんが、右の人間との接点は腰の部分。一方、右の人間は頭でもって左の人間を支えている。しかも、両者共に斜めです。これは支えているというよりも、ものすごく無理のある体勢でかろうじてバランスを保っているという感じです。

そんな風に考えると、という字は、人間同士が微妙なバランスで関係を保っている状態を表現しているようにも見えるのでした。

ちなみに漢和辞典を引くと、という字は六書でいうところの象形にあたり、立っている人間を横から見て、腕と足を伸ばしている状態を表現しているらしいので、一番最初の校長先生が話しそうなありがちな俗信(多分、金八起源)含め、全くのフィクションなのです。フィクションだから悪いという話ではなく、個人的には寧ろ、こうした俗信を受け入れ得た日本人の心性の方が面白いなと思ったりするわけです。何だかロールシャッハテストみたいですね。

2005/11/21(Mon): New term

既にこの日記でも滅多にお目に掛からなくなった荒らし界という術語。この語をいかに定義するかという問題については以前板で軽く触れたことがあります。ログを漁るのが面倒なので曖昧な記憶で再定義すると、広義には荒らしサイトを中心とした周辺サイト群を含む秩序、狭義には荒らし幕府以降の秩序とかそんな感じだった気がします。

この語は、(現在でさえ)厳密に前者の意味で使われることは少なく、多かれ少なかれ幕府の秩序を念頭に置いて使われているように思われます。改めて書くのも冗長に思えますが、後者の意味では幕府休止(事実上の閉鎖)以降、荒らし界という秩序は必然的に崩壊に向かい、今やこの言葉は悲観的な、あるいは懐古的なニュアンスを伴って用いられる事がほとんどです。

こうした現状を踏まえ、過去の秩序、そして、未来の秩序を表現するにより適切な術語はなかろうかと、かなり前からぼんやりと考えていたのですが、先日バルトの零度を読んでいた際に、以前読んだ彼の著作のことを思い出し、これは如何だろうかと考えた次第なのです。

その著作とは、L'ancienne rhétorique。邦題では旧修辞学と訳されていたかと思われます。旧修辞学と言っても、別に古典古代の修辞学を扱う本ではなく、近代に至るまでの修辞学の歴史と体系を扱っております。では何故なのかというと、現代の我々が求めているまだ見ぬ新しいテクストというものが想定されていて、それに対するなのです。旧修辞学は確かにかつての勢力を失ってはおりますが、現代の我々が学んでいる修辞学であり、言語活動に浸透している伝統的な修辞学です。

そういう大きな権威をとぶった切って、真正面から抗しているところが格好良いわけですがそれはどうでも良くて、私はかつての、そして今もなお形骸化しつつ辛うじて残っている(ような気がする)荒らし界を旧荒らし界と呼んでは如何かと考えたわけです。

ただ、既にお気づきかも知れませんが、これはバルトにおけるの使い方とは若干ニュアンスが異なっていて、未来に新しいステージを想定している点では共通しますが、荒らし界の場合、旧来の世界は厳然とした存在ではなく将に死に瀕しており、従って、未来の荒らし界にかける希望も儚く悲痛なものなのであります。

そんなもの悲しい術語は、やっぱりみんな厭ですかねぇ。

2005/11/02(Wed): ダイ亜モン

FreeBSDのロゴが新しくなった。記事の要約になりますが、正確には今までのデーモン君は非公式なもので、FreeBSDに限定されるものではなかったのです。それで、FreeBSD限定で使用される公式のロゴが決定されたというお話。また、プレスリリースを視野に入れて、二色や三色の印刷でも綺麗に出るようにというのも一つの基準になっています。何だか味けないロゴになってしまいましたが、従来通りデーモン君はマスコットとして使われていくそうです。

ところで、キリスト教徒的にはデーモン君は大丈夫なんでしょうか。ダイモン(ギリシアの守護霊)だから平気なのか?

2005/11/02(Wed): 詭弁論駁詭弁日記

掲示板から引っ張ってきたネタ。産経新聞の捏造(合成)写真の件

早朝とはいえ空を、それも光源(発光体じゃないけど)である月を後景にしてこのコウノトリの露出は、ぱっと見てちょっと不自然だと思わなかったんでしょうか。この距離ならストロボも飛ばせないだろうし。(焦点距離は記されていないが、月を画面いっぱいに移すにはかなり長焦点レンズが必要。それプラス、コウノトリの大きさを考えると……)勿論、ピントはもっとありえません。捏造が発覚した後だから言える事なんでしょうかね。

で、捏造自体についてですが、謝罪があったのは当然のこととして、別に捏造した事実(「早朝に自分で撮影した」という事実)にさほど重要性があるとは思いません。朝日と比較して、散々叩いてきた癖に同じ事やってんじゃねえか云々と言われていますが、朝日の捏造記事で問題となっているのは、「思想的理由による故意の捏造」と「慢性的な捏造体質」なわけですから、全く比較の対象となりえません。馬鹿な事ばかり言ってんじゃねえよ。