そこに転送された瞬間、フェイは思わずギョッとなり固まった。 目の前にあったのは上も下も右も左も分からず、距離すら満足に掴めない、無制限に広がっている白一色の空間だった。 何も無い空間として存在している以外、そこには何も無かった。 Good luck on your travel 「これは…、一体……」 今まで見てきた閉鎖サイトとのあまりの違いに、フェイは呆然と呟く。 長い間ネットを放浪していれば、デッドリンクの10や20は普通に踏む。 釣りに引っかかり、何も無いサイトへ飛ばされたことも幾度かあった。 だが、どのサイトも今、目の前に広がっているサイトのような様子はしていなかった。 何も無い、と言っておきながら管理者がサルベージし損ねたデータの破片があちこちに落ちていたり、サイトの骨格だけがまるで何かの生物みたいにだたっぴろい空間に佇んでいたことがあった。 しかし、目の前に広がる空間は、あまりにも何も無かった。 データの破片はおろか、米粒ほどのゴミやチリ一つすらない。 あるのはただただ、白く染め上げられた空間だけだった。 「……」 フェイは黙って己の手を見つめ、握り拳を作る。 大きく腕を動かし空間を切り裂くような動作を取ったが、切り裂いたはずの空間に風は起こらず、揺らぎ一つすらしなかった。 「なんだここは……」 ビックバン以前の宇宙空間があったとしたら、こんな感じなのか?と呟きつつフェイは前へ動く。 前へ、と言っても己の感覚での「前」なので本当は後ろかも知れないし左右かも知れなかったが、真っ白い、何も無い空間に上下左右はもはや関係なかった。 何分、何時間経ったか分からないが、ひたすら「前」へと向かう。 白一色の空間を進みながら、フェイはとあることを確信していた。 表の世界を何年も放浪しても一つも得られなかった記憶に関する手がかりが、荒らし界隈へ来てから何個も見つかったり、思い出したりしている。 それが指し示すことはだた一つ、「自分は界隈限定のPCだった」ということなのだろう。 仕事用のPCや趣味用のPCという風に何種類ものPCを使い分けるのが当たり前になっている今、そうだとしてもさして驚くことは無かった。未帰還者になる直前にこのPCを使っていた為にここに意識を閉じ込められたのだろう、と推測する。 今までの放浪が何の意味も持たなかった事実に落胆しつつ、ようやく記憶の手がかり掴めたのだから、と自らを励ましつつ何もない空間を進み続ける。 だが、何も見つからないまま時は過ぎていく。 ここは違ったのか、とフェイが諦めかけていると視界に黒っぽい点が飛び込んできた。 「…あれは……!」 それを見逃すはず無く、焦点を定めると勢いを付けて進んでいく。 やがて、進んでいくに連れて微かに見える程度だった黒い点は徐々に大きさを増し、米粒ほどの大きさになり、終いには肉眼でそれが何であるかを確認出来るくらいまでになった。 「これは…」 何も無い空間にただ一つ在ったものは、壊れかけボロボロになった旗だった。 旗と言っても国旗のような近代的なものではなく、戦国大名が使っていた旗に似た姿をしている。 フェイは滑るように旗の傍まで移動すると、おもむろに手を伸ばして掴んだ。 少しでも衝撃を加えれば飛散してしまいそうな旗を丁寧に扱い、何か書かれていないか目を凝らす。 あちらこちら破けており色も薄くなっていたが、裏返すとフェイの目に蛍光青で描かれた三の鱗の模様が飛び込んできた。 三の鱗の紋。 その模様に、フェイの額に皺が寄った。 「どこかで見た気がする…」 小さく呟いた彼は、脳裏からその記憶を引きずりだそうとするかの如く、紋様を凝視する。 ふと、誰も居ないはずの背後に何者かの気配を感じ、フェイは後ろを振り返った。 「…な…」 思わず素っ頓狂な声を上げてその場に固まる。 手から旗が滑り落ち、何も無い空間にふわりと浮かんだ。 少し離れた場所には、ボロボロになった鎧を着こんだ武者姿のPCが立っていた。 フェイがつい先ほどまで持っていたのと同じ種類の旗を背負い、刀を持ちじっとこちらに視線を送っているが、その姿は今にも消えてしまそうなほど不安定で頼りない。 「あんたは…」 鎧武者姿のPCに、室町幕府で感じたデジャヴが蘇る。 あの時、自分の横で笑っていたPCと同じ鎧を目の前のPCは着ている…、そう気が付いたフェイはすぐさま空間を蹴っていた。 何を考えていた訳でもなく、ただ、鎧武者に近づきたい一心で突き進む。 PCは近づいてくるフェイを黙ってみていたが、おもむろに口内で何かを呟いた。 「……っ!?」 途端、ガクンとフェイの動きが止まり、身体の周りに白と黒の転送ゲートが現れる。 「な、強制転送だと!」 ゲートの色に、フェイは驚いて叫んだ。 強制転送が起きる場面は多くない。 その空間に対する強い権限が無ければ実行に移せない為、管理者が自らの意に反する訪問者をサイトから引き離す為の手段に用いるというのが大概だった。 「まさか、あんたが…」 目の前のPCが自分を排除しようとしている、と気が付いたフェイは眉を潜める。 「なんでこんなことをする!」 なぜ自分が排除されなければならないのか分からない、と鎧武者のPCを睨みつけるが強制転送を止める気はないらしく、ゲートの動きは早くなる一方だった。 「しょうがない…!」 低く唸ると、フェイは強硬手段に出た。 胸ポケットから緑色の液体の入ったアンプルを取り出すと同時に握り潰し、液体を周囲に振りまく。 ジャミングに似た能力を持つ液体の効果により、自分に向けられていた鎧武者の転送指示を無効化すると、ようやく白黒のゲートは動きを止めた。 ガラスの破片が手に刺さった痛みに顔を顰めつつ、フェイは溜息を付く。 液体の能力は長く続かない為、遅かれ早かれ強制転送されてしまうのだが、僅かに作れた時間で鎧武者との対話を試みた。 「一体、どういうつもりなんだ」 きつい口調で問えば、兜の中に隠れている鎧武者の目が向けられたのが分かった。 だが、それに生きているモノ独特の光が感じられず、違和感に首を捻ったフェイはPCに近づく。 「…、人工知能、じゃないか」 傍まで寄り、その事実に初めて気が付いたフェイは呆れた声を出した。 目の前にフェイが立っているのに言葉を発するどころか微動だにしない鎧武者はPCでは無く、自立型のAIだったのだ。AIだとしたら、いきなりの強制転送にも納得が行く。 「…サイトを守っているのか」 よくよく考えればこの何も無い空間に好んで居るPCなどいないだろう。 恐らくは、管理人が予期せぬ訪問者を排除するようプログラムしたのだ。ボロボロの鎧の状態から見ても何年もここに放置され、メンテナンスされていないらしかった。 「まいったな…」 拍子抜けしたフェイは頭を掻く。 PC相手だったら聞きたいことが山ほどあったというのに、AI相手ではまったく意味が無かった。 「喋れるか…?」 一応AIに尋ねてみるが、思った通り返事は帰って来ない。 それにしょうがないか、と諦めたフェイは再び鈍く動き出した転送ゲートに、液体の効果時間が切れかけているのを知った。どこへ飛ばされるか分からないがこれ以上抵抗するのは無意味だと一歩下がり、強制転送に身を任せる。 だが次の瞬間、背筋にGehoo!Japanで感じたのと同じ種類の悪寒が走り抜けた。思わず身構えたフェイの勘は外れることなく、AIの背後に空間の捩れが発生するとバグが弾き出されてきた。 「まさか…!」 なんでこんな場所に、とフェイが驚くより早くGehoo!Japanで遭遇したのとは違い両手にナックルを構え二足歩行をしてるそれは、鎧武者のAIに襲い掛かる。 「そうは…、させるか!」 咄嗟に大鎌を転送させ攻撃を弾き返したフェイだったが、強制転送中で思うように動かない身体では攻撃を防ぎ切れず、AIの脇腹にバグの攻撃が入ってしまった。 その影響か、フェイの周りに出ていた転送ゲートの色が変わる。 紫の一色になったゲートに、フェイは目を見開いた。 「まずいぞ」 転送中になんらかのトラブルが起こり、行き先の指定が解除されるとゲートは紫色になる。この色のまま飛ばされるとネット上のどこへ送られるか分からず、PCが破損することもあると聞いていたのだ。 そうしている内にも、バグは鎧武者へさらなる攻撃を繰り出そうと態勢を構え直す。 「くそ…っ!」 攻撃するようなプログラムは組み込まれていないのだろう。受身のままのAIにフェイは舌打ちし、別のアンプルを使い強制的に転送先を固定しようとしていたのを諦めると、バグに蹴りを見舞い怯んだ隙を付いて大鎌を振りかぶった。 寸分違わず脳天に突き刺さった鎌に、バグは動きを止めるとその場に崩れ落ちる。 「俺は必ずここへ…」 バグを倒したのを確認したフェイは、AIに振り返って言う。 戻ってくるぞ、と続けたのと同時にフェイは転送され、空間に再び静けさが戻った。 「………」 フェイが去ったのを見届けた鎧武者のAIは何を言うでも無く、そこに佇んでいた。 バグから受けた傷はいつの間にか修復され元通りになっていたが、元からメンテンナンスもされていない不安定なデータだった為か、やがて少しずつ世界の白と溶け込んでいくと周りと同化しながら消えていく。 フェイが転送され、鎧武者も消え去り何も無くなった空間にはただ一つ、ボロボロになった旗がふわふわと、所在無さげに浮かんでいるだけだった。 |