東欧の吸血鬼信仰と18世紀西欧における吸血鬼論争について


この記事は2005年頃に執筆した文書がもとになっている。

目次

本稿は、東欧で見られる吸血鬼信仰とそれに付随して18世紀に西欧を中心に起こった論争を、吸血鬼事件という一連の流れとして捉え考察するものである。吸血鬼というテーマは、近代においてフィクションの世界で取り上げられて以来、小説・映画・アニメーション等様々なメディアを通して、吸血鬼信仰と直接の関わりのない我々日本人にも広く知られるところとなっている。フィクションの吸血鬼は、ブラム・ストーカーが著した『ドラキュラ』の貴族的なイメージが強いが、民間信仰の吸血鬼を扱う為には、そうした吸血鬼のイメージを一度捨て去り、再定義しなければならない。

吸血鬼という概念を広義に、つまり血を吸う怪物程の意味で捉えると、かなり広範の怪物・亡霊の類がその範疇に入れられてしまう。日本語の「吸血鬼」とは vampire の訳語であるが、東欧では吸血鬼を示す語として vampire 系統以外にいくつかの種が見られ、民族により吸血鬼を示す語は様々である。吸血鬼を表す語については次章で扱うが、そもそも吸血鬼として我々が捉えようとしている概念自体が後代のもの、あるいは吸血鬼信仰から一歩後ろに引いた地点から諸地域に見られる信仰を捉えようとする試みである。別の言い方をするならば、一種の典型・理想形を想定してそのもとに諸々の現象を捉えようとしているのである。それをどこに置くかは直接、考察の視座に関わってくるが、本稿では18世紀前後に西欧で取り上げられた東欧の吸血鬼報告を中心に置くから、そこで見られる吸血鬼像を典型として想定するのが適当であろう。吸血鬼報告の具体的な検討は本論で行うとして、ここでは吸血鬼の特徴を以下の如く仮定する。

  • 蘇った死者である
  • 生者から血(生命力)を奪う
  • 奪った血によって死後の生を保つ
  • 血を奪われた生者を吸血鬼にする

初めの項目は蘇った死者、亡霊などとも日本語では表される。英語の revenant という語は、この特徴を的確に表している。また、血液を奪われる生者は必ずしも人間に限られず、家畜等が被害に遭う事もある。考察される怪物、乃至亡霊は必ずしも全ての特徴を持っていなければならないという訳ではなく、どれかが欠落している事もある。これらはあくまで吸血鬼報告で見られる吸血鬼の一般的な特徴にすぎない。

本稿で用いる「吸血鬼事件」とは、以下の一連のプロセスを表す。

(予防・防御) ⇒ 事件発生 ⇒ (予防・防御) ⇒ 原因の特定 ⇒ 探索 ⇒ 殺害 ⇒ 記録 ⇒ 評価

吸血鬼(と見なされた死者)の殺害までは、一地域における騒動に過ぎない。しかし、18世紀に起こった一連の吸血鬼事件の特徴は、そうした騒動が吸血鬼信仰との繋がりの薄い外部の世界、即ち西欧に報告され何らかの評価を下された点にあるのである。

民間信仰における多様な吸血鬼像は、先行の研究により地域、歴史、信仰間の連関等が既に考察されてきている。本稿では、吸血鬼信仰を上で述べたような吸血鬼事件のプロセスの中で捉え、またキリスト教との関連についても考察する。

vampire という語

吸血鬼 vampire という語の語源を探る事は、東欧の吸血鬼の本来の姿、原吸血鬼とでもいうべき存在を探る事でもある。語源に関しては現在までにいくつかの説が提出されているが、ここではvampire という語の起源と定着の過程を、簡単にまとめておく。

スラヴ語族は、ヨーロッパ中・東部からシベリアにかけて使用されている、インド・ヨーロッパ(印欧)語族東方群に属する言語である。現在スラヴ語の言語人口は2億数千万に達すると推定されているが、もともと、紀元前には共通スラヴ語(スラヴ祖語、スラヴ共通祖語)と云われる一つの言語だった様で、起源的には、インド・ヨーロッパの一方言であったと考えられるが、1世紀後半のゲルマン大移動などに伴い、東・西・南スラヴ語に分化する事になる。

スラヴ諸族は言語的特長と地理的分布によって分けられ、主に旧ソに居住するのが東スラヴ族、具体的にはロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人であり、西スラヴ族に属するのはポーランド人・チェコ人・スロヴァキア人・ソルブ人、南スラヴ族がブルガリア人・旧ユーゴのスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人・マケドニア人である。ゲルマン族が去った後の空白化した土地に移住したのが西スラヴ族、5世紀から10世紀にかけて、ブーク川、ドニエストル川、ドニェープル川方面へと東進して行ったのが東スラヴ族、6・7世紀以降、カルパチア山脈を越えて南下し、バルカン半島にまで進出して行ったのが南スラヴ族である。スラヴ族のもともとの居住地、原故郷は現在のポーランド・白ロシア・北西ウクライナに該当する地域と推定されている。

スラヴ各国の吸血鬼に相当する言葉――特にフランス語・英語の vampire やドイツ語の Vampir の系列に属するものを挙げてみると、セルビア・クロアティア語の upirina、ウクライナ語の upyr、ポーランド語の upior、白ロシア・チェコ・スロバキア語の upir、ボスニア語の lampir といったものがある。

栗原の整理した系統によると、吸血鬼の名称には vampir(upir)系、vukodlak 系、strix 系、他にも moroi 系がある。ここでは、吸血鬼 vampire の語の語源が問題になっているから、他の系統については深く論じない。

語源をスラヴ諸語に求める説は現在もっとも広く受け入れられている。例えば、ポーランド語の「翼をそなえた」 upierzyc または「翼ある亡霊」 upior であるとするものがある。『ポーランド帝国自然史』(1721)の著者ルツァチンスキーによると「屍衣を食べ、己が肉を食らい、墓場から蘇り、人に襲いかかり首を絞める怪物を、男ならウピール upir、女ならウピールチカ Upierzyca と呼んでいる」のであり、更に「ウピールとは、翼の生えた、容易に動き回ることのできる人体という意味である」。また、ロシアの言語学者ソボレフスキーやフランスのスラヴ語学者ヴァイヤンは -pir をロシア語の「飛翔する」parit’、「羽」pero に結び付けた.

一方、セルビア語の vampir の綴りから、「飛ぶ」 pir と否定を表す vam が組み合わさったとする説もある。スラヴ祖語の形からのアプローチとして、ポーランドの言語学者ブリュックナーは、『ポーランド語語源辞典』(1957)において -pyr’ に注目し、それを 「飛ぶ」per という動詞の語根と関係付けた。彼は、「大蝙蝠」を意味するロシア語の netophy’(ne-to-phy’)、ポーランド語の nietoperz(nie-to-perz)が、否定詞的接頭辞と「飛ぶもの」との結合から「鳥ではないもの」という意味になっている語構成法の類推から、 吸血鬼の原語を「鳥に似て非なるもの」の意に解釈し、「原初的なヴァムピールは長い鋭い嘴をもって、犠牲者の血を吸う夜鳥の姿をしていたからである」と説明している。

他の説としては、北方トルコ語の「魔女」uber、カザン・タタール語の ubyr を語源とする説 ――今日では退けられている――や、リトアニア語の「飲む」wempti が変化したとする説 などがある。また、ゲティングズこの言葉そのものが、ある世界から別の世界のエネルギーそのものを飲む実体の観念を示唆しており、この言葉の語源といわれるロシアのヴァンピルは語根 pi (飲む)に由来する。と述べており、バンソンこの語は、リトアニア語の wempti (「飲む」)に由来するか、もしくは語根 pi(「飲む」)に接頭辞 va あるいは av がついたものかもしれない。と述べている。ハンガリー語の vampir に語源を求める説もあるが、ハンガリーにおいて vampir という語が初めに使用されたのは、多くの西欧諸語よりも1世紀遅れての事であるという点から根拠のないものとされている。

ギリシア語に起源を求める説として、飲むという動詞 πι と関連があるとするものがある。また、ヨーハン・クリストフ・ハーレンベルクはギリシア語源説を唱え、vam はギリシア語で血や生命を意味する αιμα、piren は「飢えている」という意味と説明した。ヴォルテールはギリシアのアルファベットの二文字目βがヴルコラークと呼ばれていたところから吸血鬼ギリシア起源を唱えている。ただし、前者はミハエル・ランフティウスによって牽強付会と評されているし、後者は語源を示すものではない。

いくつかある語源説の中でもとりわけ「飲む」に関連した説は興味深い。この説を唱える場合、研究者の頭には「エネルギー(特に血液)」を「飲む」という観念があるようだが、死者と水に関する信仰や墓の中から聞こえる音 との関連性を私は指摘しておきたい。

語源を確定する事は難しいのでここでは明言しないが、スラヴ語族の単語の変化・組み合わせによって吸血鬼に相当する単語が生まれたであろう事は想像に難くない。そして、吸血鬼現象の増加に伴って、吸血鬼という概念は各地に定着していったのだろう。

一方、西欧で初めて公に vampire 系列の語が記録されたのは、アントワーヌ・フェーブルによると1725年のペーター・プロゴヨヴィッチ事件の報告書である。この報告書には「VANPIR」と記載されている。この事件は1725年7月25日にウィーンで発行された『ウィーン日誌』という新聞にも掲載され、ヴァンパイアという言葉を西欧に初めて紹介する事になった。

また、もう一つの有名な吸血鬼事件であるアルノルト・パウル事件は諸王侯の関心を引き、ヴァンパイアは広くヨーロッパに知れ渡る事になった。西欧でヴァンパイアという語が認知されるようになった事件としては、こちらを挙げるものが多い。王宮で読まれていたフランス・オランダ系の雑誌『ル・グラヌール』の1732年3月3日号でもこの事件は紹介されている。当時のスペルは「VAMPYRE」であったが、ヴァンピールという単語がフランス語に登場したのは、この時が初めてである。同年3月11日の『ロンドン・ジャーナル』の記事にも「VAMPIRE」という言葉が使われている。

また、『政治的吸血鬼』Political Vampyres は、イギリスの『ジェントルマンズ・マガジン』1732年5月号に掲載されたが、ここではヴァンパイアという言葉が風刺に用いられている。政治的吸血鬼とは即ち、税金を上げて私腹を肥やす政治家達を吸血鬼になぞらえたものである。

19世紀には、ヴァンパイアは博物学者によって吸血蝙蝠を指す言葉としても使われるようになり、20世紀には、妖婦を表す「VAMP」という語も派生した。

この様に西欧ではヴァンパイアという言葉は定着し、その姿は次第に変わっていった。言うまでもなく、語源が即原吸血鬼を示すもの、吸血鬼の本質を示すものというのは論理の飛躍であるし単純に過ぎる。ではあるが、様々な姿をとる吸血鬼を探る時、一つの手がかりになるだろう。

吸血鬼報告

ペーター・プロゴヨヴィッチ事件

東欧の吸血鬼信仰に関する記録は、近代以降多くの事例が報告されている。本章では、まず前章で触れた著名な事件であるペーター・プロゴヨヴィッチ事件及びアルノルト・パウル事件について検討する。特にこの2例を取り上げたのは、両者が西欧で大きな波紋を起こしたという理由だけではなく、吸血鬼信仰と縁の薄い外部の人間によって記録されたものであり、且つ描写が詳細に渡っている為である。

1718年、パッサロヴィッツ条約によりオスマン・トルコ領であったセルビア北部及びワラキア西部がオーストリアに割譲された。オーストリアの占領軍はこの年から1739年まで留まり、当地で行われている慣習に関して注目し報告書にまとめた。また、1710年、東プロイセンでペストが流行した折、告発を受けた吸血鬼信仰の事例が組織的な調査の対象となった。本節で取り上げるペーター・プロゴヨヴィッチ事件は、1725年セルビアのキシロファで発生し、オーストリア占領軍によって報告された。

ラーム郡キシロファ村に住んでいたペーター・プロゴヨヴィッチという農民が埋葬された後、同じ村で1週間以内に9人が病気に罹って死亡した。彼らは、睡眠中にプロゴヨヴィッチがやってきて、身体の上に腹這い喉を絞めたと証言していた。また、プロゴヨヴィッチの妻は、死んだ夫が現れてオパンキという靴を求めたと語った後他の村に移り住んだ。その為、村人達はプロゴヨヴィッチが吸血鬼として蘇ったのだと考えた。

村人はプロゴヨヴィッチの墓を暴く事に決め、教区司祭らに検分に立ち会うことを願った。彼らは反対したが、結局死体の検分に立ち会う事になった。掘り出された死体は腐臭がなく、鼻が若干低くなった以外は生きているようであった。また、毛髪と髭は生きている時よりも伸びており、爪は古いものが抜け落ちていた。皮膚は白っぽくなって剥け、新しい皮膚が出来ていた。更に、口中に鮮血が発見され、プロゴヨヴィッチは吸血鬼と認定とされる事になった。

村人達が杭でプロゴヨヴィッチの心臓を貫くと大量の鮮血が耳と口から溢れ出し、「凶暴な兆候」も現れた。最終的に、プロゴヨヴィッチの死体は火葬にされた。

吸血鬼が生者の血液を奪い次々に死に至らしめるとすれば、それは見方を変えれば死の感染という事も出来ようが、吸血鬼による被害は伝染病としての要素を持ち、村人達に感染していく。村人達が初めに発見するのは、死の感染、つまり住民の不可解な死や出来事の連続であり、吸血鬼そのものではない。さて、その死の責任を民衆は吸血鬼と目される死体、多くは「初めに死んだ者」、「疑わしき者」に対して追及するのである。墓は暴かれ、死体が(彼らの考える)正常な腐敗の兆候を示していない事が確認されると死者は吸血鬼として裁かれる。これが、吸血鬼事件の典型であり、次節に引用するアルノルト・パウル事件でも同様である。

この事例では、プロゴヨヴィッチが何故吸血鬼になったのかについて報告されていないし、彼が生前いかなる性質の人物であったかも記録されていないが、死体の吸血鬼化には何らかの理由が求められる事が多い。本件では単に初めに死んだ者であるからなのか、それとも何らかの原因があったと考えられていたのか、テキストからは判断しかねる。そもそも民衆が当時、吸血鬼化の具体的な原因の追求に関心があったかどうかも疑わしい。彼らが差し当たって必要としていたのは死の感染を防ぐ事、その原因を突き止め適切な処置を施す事であったと思われるからである。その為には、吸血鬼化した死体を発見するだけで事足りる。

ヴァン・スウィーテンやダルジャン侯爵は、吸血鬼に襲われた人々が呼吸困難を訴える事に着目し、彼らは肺病患者だったのではないかと推測している。それ故に精神不安定になり、幻覚をみたというのである。この事件でも首を絞められたという記述がある。眠っている人にのしかかって圧迫するのは夢魔としての特徴も見られるし、上で述べた伝染病という観点から見ても一つの可能性として考えられるところだろう。ただし、全てが肺病患者であったと断定するのは乱暴だ。

「凶暴な特徴」とは普通勃起を示すと考えられているが、蘇った死者が妻などに性交渉を要求するという信仰はよく見られ、吸血鬼のエロティシズムのあからさまな表象といえるかも知れない。

最終的にプロゴヨヴィッチは杭で刺され、その上、焼かれて死んだ。杭で刺す、焼却するというのは代表的な吸血鬼殺害法である。これらの殺害法については次章で更に詳細に検討する。

アルノルト・パウル事件

次に引用するアルノルト・パウル事件は、前の事件と並んで、吸血鬼論争を引き起こした有名な事件である。アルノルト・パウル事件自体は、1927年から1928年にかけてセルビアのメドヴェギアで起こった事件である。しかし、実際に調査官達が調査に訪れたのは1932年、第2の事件の時であり、アルノルト・パウル自身の死体は調査の対象になっていない(報告書によれば、既に村人達の手によって焼却されてしまっている)。

この事件は当局の興味を買い、ヨハン・フルッヒンガーによって『見聞録』(1732) Visum et Repertumという題の検査報告書が著され、ヨーロッパ中で出版された。報告中にはフルッヒンガーを始めとした軍医による、死体の客観的な記録が残されている。

村に調査の為訪れた軍医らは、まず5年程前に干草車から落ちて死んだ傭兵アルノルト・パウルについての話を聞いた。この男は、セルビアのゴサワ近くで吸血鬼に取り憑かれた事があり、その際、吸血鬼の墓の土を取って食い、その血を身体に塗る事によって難を逃れた。死後2・30日経って、彼に苦しめられていると言う者が現れ、4人が死んだ。パウルの死体は、死後40日目掘り出されたが、それは腐敗しておらず、眼・鼻・口・耳なから鮮血が流れ、棺の中は血塗れであったという。古い爪と皮膚は剥がれ、新しく再生していた。パウルは吸血鬼とされ、心臓に杭を突き刺された。すると、死体は呻き声をあげ、大量の血が流れ出した。その後、死体は灰にされ、墓に埋められた。

村人によれば吸血鬼に取り憑かれ殺された者も吸血鬼になってしまうという事で、上の4人の他、パウルに襲われた家畜を食べ死んだと思われる人など疑わしい墓を全て暴いて死体を解剖する事になった。

  1. 2・3ヶ月前、産後3日目に死んだスタナという20歳の女性。パウルのように、死ぬ前に吸血鬼の血を体に塗っていた。死体は腐敗も損傷もしておらず、胸腔に大量の鮮血見られ、血液は凝固していなかった。子宮が膨張している他、内臓に異常は見られなかった。古い皮膚と爪は剥がれ、新しいものが出来ていた。
  2. ミリザという60歳の女性は3ヶ月間病床にあって死に、90数日前に埋葬。やはり、胸に大量の血液が認められ、臓器も健康な状態であった。体は生前より肉付きが良くなっており、それ故、今回の事件の発端は彼女であると云われた。彼女は先の事件の際、吸血鬼に殺された羊の肉を食べていたらしい。
  3. 生後8日で死に埋葬後90日の子どもも同様の状態であった。
  4. ある傭兵の16才の男の子で、病気に罹った後3日で死に埋葬後9週間たった者も同様。
  5. 同じく傭兵の男児で3日寝付いて死んだ17歳のヨアヒムも8週間と4日間地中にあったが同様の状態だった。
  6. 病気になってから10日で死に、埋葬後6週間のルーシャという女性。胸のほか、胃の底部にも多量の鮮血が認められた。この女の子で5週間前に生後18日で死亡した子供の体内も同様。
  7. 2ヶ月前に死亡した10歳の女児も同じ状態。
  8. 傭兵のハドナクの妻は7週間前、生後8週間の子供は21日前に死亡。地面や墓は他と同様であったが、完全に腐敗していた。
  9. 地方傭兵隊伍長ラーデは21歳で、3ヶ月病床にあったのちに死亡し、埋葬後5週間経っていたが、完全に腐敗していた。
  10. 地方バリアクタルの妻子で5週間前に死亡していた者も完全に腐敗。
  11. 60歳で死亡し、死後6週間になる傭兵スタンヘは、他の者同じく、胸と胃に大量の血液が存在。全身が上の吸血鬼化している者達と同様の状態。
  12. 25歳の傭兵ミロエは埋葬後6週間で、やはり同様の状態。
  13. 傭兵の妻スタナッカは20歳で、3日病床にあった後死亡、18日前に埋葬されていた。傭兵の子ミロエに首を絞められたと生前証言しており、死体の顔は真っ赤で耳の下の右側に指の長さの青あざがあった。死体を墓から取りだした際、鼻から鮮血が流れ出した。他の者と同様、胸腔や心室に鮮血が見られ、臓器は正常な状態だった。皮膚や新しく生えた爪は生きている人間と同じように見えた。

吸血鬼と判定された者達は頭をジプシーによって切り落とされ、身体とともに焼かれ、灰はモラヴァ川に棄てられた。腐敗していた死体は元の墓に戻された。

ここでは前節のプロゴヨヴィッチの事例とは異なり、吸血鬼が生まれた理由、防御法(ここでは吸血鬼の血を用いている)、吸血鬼の行動、伝播、殺害、吸血鬼の兆候など基本的な事項が記録されている。しかし、プロゴヨヴィッチの場合と同じく、死体が実際に起き上がって徘徊した、村人達を苦しめたという信用出来る記録は見当たらず、死体が発見されているのは墓の中においてである。吸血鬼はここでも悪夢として語られる。普通、吸血鬼は人々の見えぬところで悪事を働く。

短期間のうちに人間や家畜が次々と不可解な死を遂げるという事態は、極めて伝染病的である。プロゴヨヴィッチの場合は彼を吸血鬼として処理する事によって一応の解決を得たが、それでも事件が解決しない事がしばしばある。そうした事態を村人達がどのように説明するかというと、その一つが本件でも見られるような、吸血鬼の増殖、つまり吸血鬼に襲われた者もまた吸血鬼になるという論理である。

伝染病にしろ、家畜が襲われる事にしろ不祥事であり、厄介事に変わりない。その為に、疑わしき者は死後に裁かれた。死体を裁くという事は異常であるように思われるかも知れないが、ヨーロッパにおいて現実の遺骸が裁かれるという慣習は裁判で珍しくない。キリスト教では霊魂と肉体を切り離して考えるが、ゲルマン的伝統では死者はしばしば眠っている状態に過ぎないと考えられており、死体裁判は近代の裁判システムにおいても擁護されていた。むしろ、死者であるという理由で裁けなければ裁判システムの権威は危機にあたってしまうというのである。あるいは、我々はマルキ・ド・サドの『ソドム百二十日』で、ファンションという女が、欠席裁判で有罪が宣告され、似姿を絞首されたという話を思い出すかも知れない。権威云々は差し引いたとしても、死者が裁くという行為が比較的広く受け入れられていた点は、吸血鬼事件を読み解くに当たって注意しても良いかも知れない。

その他の吸血鬼報告

プロゴヨヴィッチ及びパウルの事例を検証する事によって、吸血鬼事件に特徴的ないくつかの点が知られる事になった。即ち、死者は伝染的な死や厄介事のいわばスケープゴートとして、殺されるという事である。村人達の解釈によれば、それは人間や家畜の血を吸う吸血鬼であるという。そして、初めの吸血鬼が殺害されてなお被害収まらぬという事態に対する一つの解釈として、吸血鬼によって襲われた人間・家畜もまた吸血鬼になると説明がなされた。また、死者が正に吸血鬼であると認定される決定打は死体を掘り起こす事であり、それにより彼らの想定する正常な腐敗の兆候が見られなかった場合、死者は吸血鬼であると判断され、杭で打たれたり焼却されたりする。少なくとも、住民が吸血鬼を捕らえる事が出来るのは墓の中、物言わぬ死体としてであり、初めに吸血鬼ありきではなく、初めに事件ありきである点が留意される。

本節では更に他の報告を検討する。18世紀、ベネディクト修道会士のドン・オーギュスタン・カルメは『精霊示現、ならびに、ハンガリー、モラヴィア、等の吸血鬼あるいは蘇える死者に関する論考』(1746)の中で、ベオグラード周辺の村における死後蘇生者に関する報告を紹介している。調査団はカール6世により命じられ、当時の副王でありセルビア総督であったカール・アレクサンデル・ヴュルンテンベルク公爵によって派遣された。当初の構成員は、将校、文官、法務官らである。

ここで述べられている吸血鬼とされる男は3年程前に埋葬されたが、15日間の間にその甥姪の3人と自分の兄弟の1人を殺害し、調査団が到着した時には姪に当たる人物を既に2度に渡り襲っており、犠牲者は衰弱しきっていた。吸血痕は青い斑痕とされ、場所は特に決まっていない。調査団によって暴かれた墓から現れた死体は健康そうであり、欠けているところはなかった。死体の心臓に鉄槍の一種を打ち込まれると、血液と白色のどろどろとした液体が迸った。次いで首が斧によって刎ねられ、腐敗を早める為、生石灰とともに死体は再び埋葬された。その後、衰弱していた姪は快方に向かったという。

この報告では、吸血鬼と目される死体は既に死後3年を経ている。彼が吸血鬼化した理由については明らかにされていないにしろ、15日間という短期間に起こった身内の死と3年前に死んだこの男とが最終的に結び付けられている。プロゴヨヴィッチの事例でも吸血鬼は妻のもとを訪れているが、この事例ではより一層そうした傾向が顕著で吸血鬼は近親者しか襲っていない。吸血鬼が主に近親者に被害を及ぼすという信仰も多く見られるもので、恐らくこれは祖霊崇拝と関係している。吸血鬼と祖霊崇拝との関係については、次章でも考察する。

吸血鬼が血を吸う箇所は民間信仰の中でも様々に考えられており、フィクションのように首筋に限られている訳ではない。魔女狩において魔女の印を必死で探したように、身体のどこかに吸血痕と思しきものが見つかれば、それが吸血の証拠と考えられたようである。つまりここでも確かに言える事は、何人かの死者や病人が出ているという事実だけであり、それに対する解釈は後付けであるという事である。その解釈の一様式が吸血鬼である。

カルメは、当時より15年程前の話として、ハンガリーにおける吸血鬼の事例についても紹介している。ハンガリー戦線に駐屯中のある兵士が義勇兵の農家に寄宿していた折、もてなしの座で見知らぬ人物が入ってきて席についた。宿の主人や客らは大変怯え、然るに主人は翌日死んでしまった。人々によると、それは10年前に死んだその家の主人の父親で、彼は主人の側に座り、死を知らせたのだという。

兵士はこれを連隊に報告し、アランデッティ歩兵連隊長カブレラ伯爵が事件を調査する事になった。調査団には、外科医と法務官らが含まれた。件の父親の墓は掘り起こされ、死んだばかりのような死体と生きている人の如き血が確認された。死体の首は切断され、墓に戻された。伯爵は更に調査を行い、それによると、30年以上前に死んだはずの男が自分の家に3度の食事に戻り、弟や息子、その家の下男らの首から血を吸い死に至らしめた。これも掘り起こしてみると、同様に血液は凝固しておらず、死体はこめかみに大釘を打ち込まれ再度埋葬された。また、16年前に埋葬された男が、自分の息子二人の血を吸い殺していた事例もあり、この死体は焼却させた。

この報告でも吸血鬼は近親者やその家族を襲っている。伝承や説話、村人の話として吸血鬼を見た、出会ったという話は多いが、この報告のように外部の人間が吸血鬼、亡霊と思しき人物を実見したという事例も少ないながら存在するという事を示しておく。

フランスの植物学者ド・トゥルンフォールは、ギリシアのミコノス島でヴリコラカスとされる死体が解剖される場面に遭遇した。この出来事は、彼の著作『中近東紀行』(1708)に紹介されている。

生前、陰気で喧嘩好きであったさる農夫が畑で殺害された。犯人も動機も不明であった。町の礼拝堂に埋葬されて2日後になってから、この男が夜大股で徘徊したり、あちこちの家で家具をひっくり返したりランプを消したり、後ろから人に抱きついたりという狼藉を働くようになったという噂が広まった。次第に騒ぎは深刻化し、司祭さえもこの事実を認めざるを得なくなった。ミサも捧げたが無益であった。

討議の末、埋葬後10日目に掘り出され、まず死体に潜んでいる悪魔を追い出す為にミサを挙げた後に死体を掘り出し、心臓を摘出した。死体の悪臭と、それを消す為に焚いた香とが混ざって、酷い悪臭に覆われた。人々は死体から濃い煙が立ち昇っているなどと言い、「ヴリコラカス」とばかり叫び続けていた。また、死体の血は赤かったとか、身体はまだ温かかったとか、埋葬時死後硬直していなかったなどとも言われ、かの男はヴリコラカスに違いないという結論に至った。ド・トゥルンフォールらは死体が既に腐敗過程にある事を説いたが、結局、死者の心臓は海岸で焼却される事になった。

しかし、その後も夜になると人を打ったり、戸や屋根を破壊して家屋に侵入したり、窓を割ったり、人の衣服を破ったり、水差しや瓶を空にするといった悪戯が止まなかった。しかし、ド・トゥルンフォールらが滞在している領事館は無事であった。住民は、先に取り行った吸血鬼殺害の儀式において、心臓を摘出する前にミサを挙げたのが失敗であったと考えた。先にミサを挙げた為に、死体に入り込んだ悪魔は十分逃げ出す余裕があり、再び戻ってきたのだと云う。人々は三日三晩行列を続けたり、司祭に断食させたり、家々を聖水で清めたり、ヴリコラカスとされる死体の口を聖水で満たしたりした。また、ド・トゥルンフォールらの助言によって夜警も置き、数人の疑わしい放浪者も逮捕された。しかし、(ド・トゥルンフォールの言葉によれば、彼らが首謀者でなかったか早く釈放しすぎた為)2日後にはまた被害が再発しだした。たまたまミコノス島に滞在していたアルバニア人は、住民が墓に剣を刺したりしているのを見て、キリスト教徒の使う剣は十字架の形になっているから悪魔がこの死体から出られないようにしてしまっているのだと主張し、トルコのサーベルを使うよう勧めたが、やはり効果はなかった。1701年1月1日、最終的に、彼らは行政官の命令で死体を聖ゲオルギオス島の岬に運び、荼毘に付した。それ以降、ヴリコラカスによる被害はなくなった。

この報告でヴリコラカスは、蘇って狼藉を働く死者として登場しており、吸血は行っていないが、住民には明らかに厄介事の元凶と見なされており、こうした迷信に対して懐疑的なド・トゥルンフォールは、人々が、島を襲う厄介事の元凶がヴリコラカスであるという確信を次第に強め、熱狂していく有様を詳細に描いている。

ここでもヴリコラカスとされた死体は、様々な厄介事のスケープゴートとして扱われている。ヴリコラカスとなった男は生前あまり性質のよくない男であり、しかも他殺された、いわばいわく付きの人物である。ヴリコラカスがなしたとされる悪戯の類が、現実に誰の仕業であったかは定かではないが、ド・トゥルンフォールは、悪戯が夜間であった事や逮捕された放浪者や領事館のみ無事であった事実を挙げて、便乗犯の可能性を示唆している。観察者達は蘇った死者が実際に徘徊し、行為に及んでいる場面を実見していない。

吸血鬼の殺害については多くの方法が提示され、住民の間でも混乱が見られる。ミサや十字架といったキリスト教のシンボルは大した役割を果たせず、最終的には死体の物理的な消滅によって事件は解決している。ここでは吸血のモチーフが用いられていないから、なお止まぬ被害に対し、人々は死体に対する処置自体を疑ったようである。取った手段は、他の島における火葬であり、島流しと火葬という二つの殺害法が同時に行われている。この二つは次章で述べるように、共に吸血鬼殺害法としてよく見られるものである。

死体の身体について、血液が赤かったとかまだ温かであったとか死後硬直がなかったというような主張、つまり腐敗していないという主張がなされている。これについては、既に見た報告と同様である。しかし、ここで人々は蘇る死体について、悪魔が死体を蘇らせるという説明を行っている。これは、何故吸血鬼とされる死体が蘇るのかという問いに対する、一つの答えでもある。民間信仰の中だけでなく、こうした考えは吸血鬼信仰を説明しようと試みた西欧の吸血鬼論者達の間でも用いられる事があった。吸血鬼論争については、後章で論じる。

ここまで18世紀前後の報告をいくつか取り上げ、吸血鬼がスケープゴートとして用いられる事や人々が吸血鬼に関して抱いている信仰を検討してきた。しかし、吸血鬼信仰は近代の合理主義によって消滅してしまった訳ではなく、20世紀に入ってからも同様の事件が発生しているという事を最後に付記しておく。例えば1923年、ベオグラードの新聞ヴレーメ紙は、5月23日付けで、パーヤ・トミッチなる農夫が死後家に現れるようになったと報じている。彼の死体は山査子の杭で刺し貫かれ、焼却。その灰は撒布された。またコジアとホレズの首司祭に対して送られた陳情書によれば、1949年3月26日、同年2月に死んだルーマニアのある男が、近親者が次々に病気になるというので吸血鬼の容疑をかけられ死体に杭を打たれている。

吸血鬼信仰

視点

前章で取り上げた吸血鬼報告の中には、民間における吸血鬼のイメージが示されている。即ち、吸血鬼になる者は生前吸血鬼に襲われたり、性質が悪かったり、不慮の死を遂げた者であり、吸血鬼は人の血を吸って人を死に至らしめたり、悪戯をしたりして生者に害を加える。被害に遭うのは近親者である場合が多い。また、こうした吸血鬼は死んでも身体は腐敗せず、その血は凝固していない。彼らを殺す為には、杭を刺したり首を切ったり、火葬にしたり島流しにしたりといった手段が取られる。

本章では、人々が抱いている吸血鬼に関する信仰を更に細かく論ずる。吸血鬼がスケープゴートとして利用されるならば、個々の信仰をバラバラに取り上げてもあまり意味がないが、予めそうした視点を持って見る事によって、一見不可解で吸血鬼と無関係に見える信仰も説明がつくはずである。

また、吸血鬼信仰と関連する信仰、キリスト教との接点という視点からも検討する。キリスト教との接点というのは、キリスト教が吸血鬼信仰にいかなる影響を及ぼしたのかという事である。ここでは、通説に従い、吸血鬼信仰の直接の起源をキリスト教に置かないという前提に立つ。その上で考えると、まずその影響とは以下の二つに機械的に分類されよう。

  • キリスト教によって新たに追加された信仰
  • キリスト教によって再解釈された信仰

理論としてはこの二つに分けられるが、個々の事例を厳密に分類するのは難しい。ではあるが、キリスト教の影響を意識する事は、吸血鬼信仰がいかにキリスト教の枠組みの中に取り込まれていったかを認識する扶けとなるだろう。18世紀の吸血鬼論争において、西欧のローマ・カトリック聖職者達はキリスト教の枠組みによって吸血鬼信仰を解釈しようと試みる。しかし、東欧の吸血鬼信仰はそれまでの歴史の中でキリスト教の枠内に徐々に取り入れられていったのであり、決して異教の名残とばかり考えられたいた訳ではないのである。

吸血鬼になる理由

蘇る死者の生まれる要因にはかなりの種類がある。吸血鬼事件という一連の流れの中で捉えるなら、死体が吸血鬼化する理由は後から不審な点を探せば良い訳だから、無数にその数は増えていきそうである。その中には内的要因もあれば外的要因もある。不可避なものもあればそうでないものもある。

内的要因としては、例えば彼が生前疎まれていたとか周囲から理解されないタイプであったとか罪人であったとか呪術師であったとか謂うものがある。東スラヴの周辺を見てみると、19世紀末、ロシアのサラトフ地方のイェリスハンキ村の農民達が、生前アルコール依存症だった者の墓を暴いている。16世紀ロシアでは、他殺者、溺死者、そして自殺者も含めて、正規の埋葬をすると悪天候と不作を齎すと考えられていた。これは近代に至るまで信じられていたらしい。北ロシアやシベリアでは、吸血鬼と呪術師、死んだ呪術師の霊が同じ語で語られる。カレリア地方の死んだ呪術師も死後出歩いて人を襲い、オロネツ地方では死んだ呪術師は死者の体に取り憑いた。また、エラトムスク地方では魔女の生前悪魔に魂を売った女が死後亡霊になる。ウクライナでも呪術師や魔女であった者は、死後吸血鬼となった。

不慮の死も死者の安息を妨げるとされる。南スラヴ周辺だと、ブルガリアでは、腫れ物で死んだ人は亡霊になると信じられている。他にも、強盗、追剥、放火犯、売春婦、客を騙したり裏切ったりする酒場の女、その他卑劣な人間などもそうであるし、自殺者・他殺者・溺死者・落雷で死んだ者・大酒飲み・呪術師などもそうである。セルビアでは、水死した人間は吸血鬼になり雹を降らせる。ルーマニアでは、片思いの末結婚せずに死んだ者も危ない。

他の人間とは違う点があれば、それは吸血鬼である理由として十分である。特に、時ならぬ死は脅威であり、死の伝染を予想させたのではないかと思われる。また、一般に教会の定める法に背いた者は吸血鬼になるとされた。現代の吸血鬼研究家ディーター・シュトルムは、

  • 犯罪者
  • 私生児
  • 生前魔法や妖術に従事していた男女
  • イスラム教に改宗したキリスト教徒
  • 永遠の死の贖罪に値する罪を犯した神父
  • 破門された者
  • 臨終の秘蹟を受けられなかった死者

の7項目を挙げているが、押し並べて教会の戒律に違反した者である。戒律の遵守と民間信仰である吸血鬼を結び付ける事によって、教会は懲罰的な方法で民衆を教会に引き寄せたのだろう。

本人の意思・行動に左右されない内的要因、運命的な要素も吸血鬼化の原因となりうる。例えば、教会暦が神聖な期間と定めている時期に宿された者、私生児の親から生まれた私生児などの人間は、死後亡霊になると云われる。ルーマニアでは、7番目・12番目の子として生まれた者や同性の子供ばかり生まれた場合や羊膜を被って生まれた子供などは亡霊になりがちである。天地創造が行われた7日間、イスラエル12支族等、キリスト教において7や12は特別な数字である。

赤い羊膜を被って生まれてきた者が亡霊になるという信仰は各地に見られるが、バーバーによると、血の連想から吸血鬼と結び付けられた。ルーマニアでは赤色に関連するものとして、赤毛で眼の青い人は亡霊になる可能性があると云われるし、イスカリオテのユダが赤毛だったとされる事から、亡霊が「ユダの子ら」と呼ばれる事もある。乳首が一つ多い子供、体の全面または背面が毛皮の様になっている子供、脊柱が尾の様に伸びていてとりわけ毛が生えている子供のような、獣的特徴を持った者も吸血鬼になるとされた。妊婦が吸血鬼の邪視を受けていたり、塩を食べていなかったりしても子は吸血鬼になる可能性がある。ルーマニアの亡霊ストリゴイは二つの心臓を持って生まれると云われている。二つ目の心臓は死後の生の為のものである。オーバーシュレージエンのポーランド人とカシューブ人の間でも、生まれた時から歯が生えている子供は亡霊になるとされる。またゼンプリーン地方のスロヴァキア人の信仰では、二つ旋毛のある者は二つの心臓を持つ。
ロシアでも鼻の軟骨が無い子供、下唇が裂けている子供といった獣的特徴を持つ者は亡霊になりやすいと云われる。ウクライナでも先のルーマニアやスラヴァキア人の信仰にも似て、亡霊となる人間は二つの心臓を持って生まれ、一方は人類の滅亡に捧げられているという信仰が見られる。二つある心臓については魔女の場合も同様の信仰がみられ、二つあるのは心臓ではなく魂だと云われる事もあるという。二心臓の信仰は、恐らく、死体の体を突き刺すと鮮血が迸るという事態の解釈として考えられたものだろう。

吸血鬼に襲われた者が吸血鬼になるとされるように、外的要因も吸血鬼化の原因と考えられた。

スラヴの多くの国や中国、日本では、動物――日本では猫――が飛び越した死体は亡霊になる可能性があると信じられている。動物は命あるものなら人間をも含む。例えばルーマニアのアロムネ人は、黒いメンドリにこの力を見ている。また、蝙蝠が死体の上を飛び越えて吸血鬼を作ると云われる。ヴーク・カラジッチは『セルビア語辞典』で、生前罪を犯していない人間も「なにかの鳥が彼の死体の上を越えて飛ぶか、ほかのなにかの動物が飛び越えた場合は、その限りではない」と吸血鬼になる条件を述べている。因みにセルビアでは、一度動物に飛び越えられても、もう一度同じ所を飛び戻させれば吸血鬼化は防止されるらしい。ルーマニアではその動物を遺体と共に埋めてしまう。ロシアでは、動物や人間だけでなく、ステップからの風が死体の上を吹き過ぎても亡霊になるかもしれないと考えられている。

死者に夢遊病の兄弟がいたり、生前に影を盗まれたりしても吸血鬼化するとされる。後者は、ルーマニアの様な地震の多い地域の建設現場で起こる。即ち、犠牲者の影を壁に映し取って、その頭部に釘を打ち込んで固定するのだ。この慣行は建物を丈夫にする為に行われるもので、古代の人柱や同じ目的の為に人を壁に塗り込めた習慣の名残と考えられている。ルーマニアでは、傷口が開いたまま包帯をせずにおくと、その死体は亡霊になると云う。また同じくルーマニアには、墓地で夜我が身を傷つけて墓を汚すと、その墓の死体が亡霊になるという俗信もあるし、イスラムに改宗したキリスト教徒、重犯を犯した身でミサを捧げる司祭、洗礼式の時に代父母が使徒信条を唱える途中でつかえた子供は亡霊になる。セルビアでマツァールルと呼ばれる洗礼を受けずに死ぬ子、或いは一度離乳した後で再び乳を飲み出す子なども亡霊になると云われる。

プロゴヨヴィッチの場合の様に、流行病で最初に死んだ人も亡霊にされる。これは死の伝染に対する恐怖によるものと考えられ、その発想から、死者に関連する物はしばしば破壊されたりする。ギリシアでは、司祭の呪いによって死者がヴリコラカスになるとも考えられた。ユーゴスラヴィアのコソヴォ地方では、死体が埋葬する前に膨れる事が吸血鬼化の条件だと云われる。またセルビア人は、夜中墓穴が開いたままにされているとそこの死者は吸血鬼になるかも知れないと云う。

外的要因には、死後の事、とりわけ埋葬儀礼に関するものが多い。恐らく、これは祖霊崇拝の影響下で作り上げられた観念だろう。祖霊崇拝において、埋葬儀礼や定期的な供養によって祖霊を慰めるが、逆に適切に祀られない祖霊は生者に害を加える。厄介事のスケープゴートを求めるならば、何も死者である必要はない。そこで敢えて死者に責任を求めるという選択肢を取った一因として祖霊崇拝の存在を挙げても良いだろうと思う。

ギリシアでは、1人で死んで世話してくれる人のいなかった者、伝染病で死んで、誰も近寄ろうとせず、司祭も無く何も無しに埋められた者は亡霊になると考えられている。また、ジプシーの間では誰も見ていない時に死んだ人は吸血鬼になると云われる。またルーマニアでは、死体の両足を真っ直ぐに伸ばして縛っておき、体を棺に入れる時、切断した縄を体の近くに置かなくてはならない。

オルデンブルグでは19世紀にも、充分深く埋められない死体は亡霊になると云われていた。ハンガリーの戦場に亡霊が現れる、という場合も同じように、埋葬の儀礼の欠如は死者の亡霊化を招く様だ。ただし、ハンガリーにおいて、吸血鬼信仰はほとんど見られない。ヴェンド人の間では、残った子供がよく世話されていなかったり母親を必要としていたりすると、死んだ母親が戻ってくる、良心に疚しい所を残して死ぬ人、懺悔をせず、終油の秘跡を受けずに死ぬ人も同じである、と云われる。北ドイツでは、埋葬時に衣服から名前を除去しておかないと死んだ人は亡霊ナハツェーラーになる。

上に挙げた要因は、他殺者・自殺者・伝染病患者において重複しやすく、それ故に彼らは吸血鬼とされる事が多い。前章で挙げたミコノス島のヴリコラカスも生前性質が悪く、且つ他殺者であった。時ならず死んだものは、天寿を全うしなければならないという宗教的な意味合いで自然に死ぬ筈の時が来るまで亡霊としてうろつくだろうと考えられていたのだ、という意見もある。

因みに人間以外にも、ユーゴスラヴィア人とムスリムのジプシーの間では、蛇なども吸血鬼に変身し得るとか、クリスマスの後余りに長い間放置された西瓜やメロン、南瓜も吸血性の魔物になるとか、軛の木の瘤や麦藁を束ねる棒も3年使われないと吸血鬼になるとか、眼のような人体の一部も吸血鬼になるなどといったアニミスム的要素の強い吸血鬼信仰も存在する。

吸血鬼の外見

前節の吸血鬼化の原因にはキリスト教の影響がはっきりと見て取れると同時に、キリスト教以前の信仰であると思われる、祖霊崇拝や埋葬儀礼に関わる信仰も確認された。本節では、吸血鬼がどのような外見をしていると考えられたかについて検討する。吸血鬼の外見とは、取りも直さず死体の外見の事である。つまり、どのような死体が吸血鬼と見なされたのか、である。

彼等の顔を赤味があるものとする伝承は多く、セルビアでは真っ赤な顔が「吸血鬼のように赤い」と形容される。アルノルト・パウル事件で記述されているスタノイカも赤い顔をしていた。赤い顔からは、前節で触れたバーバーの指摘するところの赤色と血との連想が働いたと思われる。しかし、吸血鬼の顔の色はむしろどす黒いとするものもある。ユーゴスラヴィアのコソヴォ・メトヒヤ地方のジプシーは、吸血鬼になる体は埋葬前に黒くなると信じている。吸血鬼信仰ではないが同様の信仰として、ギリシアの村人は、掘り起こした死体の色が黒ければ、生前の生活が邪悪だったと信じている。

なお、バーバーは、このような体色変化を、沈下鬱血(死斑)現象から説明している。沈下鬱血による体色の変化は状況によってかなり変わってくるようだ。

ギリシアやプロイセンでは、死体硬直が無い事も吸血鬼化の強力な証拠と見なされている。ミコノス島のヴリコラカスの事例でも、死体が硬直していなかったという噂が吸血鬼化と結び付けて語られていた。目や口が開いている事、唇または鼻に、時には目と耳にさえ血液が付着している事も吸血鬼化の証拠と見なされる。

血液が凝固していない事も吸血と関連付けられる。アルノルト・パウル事件のミリザの場合のように、肉付きが良くなったり、膨らんだりする傾向も吸血の確かな証拠とされる。ギリシアでは、死体が墓の中で腐敗せず、膨張して、皮膚が太鼓の皮の様に張り詰めて行くのは、吸血鬼化の間違い無い印とされている。またセルビア人は掘り出された吸血鬼は、体が血で膨らんで、腐敗していないものとしている。吸血鬼の膨らんだ体は、南スラヴでしばしば悪魔が膨らました物と解釈される。所謂、「悪魔生成説」の一つだが、斯様な膨張した死体としての吸血鬼は、骨が無い者とも考えられた。 セルビアの吸血鬼は骨がない血袋のようなものである。

南スラヴの典型的な吸血鬼は、上の如く血で膨らんでいる。プロイセンの民間伝承でも、肉付きの良くなった死体の話があるし、カシューブ人は吸血鬼の顔が、膨らんで血赤色であると云う。

ドイツの亡霊ナハツェーラーの手足は、自らの手足を噛む習性でボロボロになっており、自らを食したものと見なされる。これを証拠に、吸血鬼とは「早過ぎた埋葬」が原因で、これは飢えた人が飢えを鎮める為に自らの体を噛んだのだとする意見もあるが、清掃動物と分解によって死体が損なわれたものと考えるのが妥当なようだ。

血液以外の特徴としては、死後、髪と爪が伸びていたり、爪が全く無かったりする事が挙げられる。プロゴヨヴィッチの皮膚は剥けて、新しい健康な皮膚ができていた。また、吸血鬼は左眼または両眼が開いてじっと見つめているとも云われる。ルーマニアでは後者の現象を、死体が吸血鬼になりかけている事を生者に警告しようとしているとされる事もあるらしい。また、口が開いていることも多いようだ。

吸血鬼の悪魔生成説からすれば、人々は、死体が腐敗して例え悪霊がやって来てもその体が利用できない状態になっている事を望んでいたと考えられる。しかしながら、腐敗しない死体はどこでも忌避すべきものとして扱われたのではない。西欧、つまりローマ・カトリック圏ではしばしば、腐敗しない死体は神の奇跡として崇拝され、ミイラ信仰も存在する。両者の相違を、ギリシア正教が確立した当時から続く異教・異端との戦いという条件の違いから説明する事も出来るだろう。前節で見たようにキリスト教の戒律は吸血鬼と結び付けられていた。スラヴにおける吸血鬼概念の形成には、キリスト教と異教・異端との対立、とりわけ10世紀中頃に起こったキリスト教の二元論的分派ボゴミールの影響が大きいと考えられている。

そうした環境の違いがある一方で、吸血鬼事件という一連の流れから説明する事も出来る。吸血鬼事件の中では、初めに死体が発見されるのはなく、様々な事件が起こった後、その原因究明の為に墓が暴かれる。人々の頭にあるのは、死体に異常な点を発見し件の死体が吸血鬼である証拠を挙げる事であり、こういう場面で死体が腐敗していなければそれは異常な点、つまり吸血鬼である証拠としてしか捉えられ得ないのである。僧侶や修道士の腐敗していない死体が偶然発見されるのと、吸血鬼の嫌疑を掛けられた死体が腐敗していないものとして発見されるのとでは、発見者のマインドに明らかな相違があるのである。もちろん、前提として死体が腐敗しにくい気候や土壌が必要である事は言うまでもない。

更に、腐敗や血液以外の特徴も信じられている。

亡霊の肝臓は白色だとするものがある。これは、スラヴの吸血鬼のみならず、ドイツのナハツェーラー、魔女、次々に夫に先立たれた女性などにも云われる事である。もしもこれが脂肪肝によるものと仮定するならば、吸血鬼になる条件として挙げられていた大酒飲みと符号する。

民間伝承で吸血鬼の特徴として長く鋭く尖った歯に言及される事は少ない。ロシアの吸血鬼ウピールは、舌先に針の様な物があって、それで犠牲者の皮膚に穴を空けると信じられている。

鏡や影に関する伝承も若干ながらある。例えばドイツ文化圏では、鏡は魂を映す物だという信仰から、魂を持たぬ吸血鬼は鏡に映らないと云われている。また、ブルガリアの吸血鬼は影を持たないと云われる。鏡に映らない、影がないというような特徴は、吸血鬼の顔色や形態の特徴と比べて概念的である。

鏡や鏡といった信仰を除けば、吸血鬼の特徴として挙げられている多くのものが実際の死体の観察に基づくものである事が分かる。こうした観察は、衛生設備が整えられ、死が一般の生活から切り離される以前の環境では比較的容易であろうし、南スラヴでよく見られる二次葬の習慣からも人々が死体の腐敗についてある程度の知識を持ち得る条件が揃っている。もっとも、現代ではバーバーに代表される、啓蒙的な視点から吸血鬼現象を説明しようとする立場の研究家達が指摘してきたように、民間信仰の中には腐敗過程に関する無知が見られる事は否定しようがない。

また、前述の通り、死体はそれが吸血鬼である事を証明される為に、言い換えれば、吸血鬼である徴がある事を期待されて発掘される。そうした条件下では、些細な点も吸血鬼化の証拠と考えられただろう。更に、前章の吸血鬼報告、とりわけミコノス島のヴリコラカスで顕著な集団の熱狂的な雰囲気、死の伝染に対する差し迫った恐怖といった条件も考慮に入れなければならない。

吸血鬼の行動

死体は墓に縛られているが、民衆の想像の中で、或いは実際に清掃動物や腐敗の過程によって吸血鬼は墓から現れ行動する。吸血鬼が厄介事に結び付けられ、不安を象徴したならば、ここでもやはり様々な行動をとるものと考えられているはずだ。

ジプシーの間では、吸血鬼は幌馬車をひっくり返すと云われている。セルビアやブルガリア、アルバニアの吸血鬼は、屋根に石を投げたり、家の中の器具類を投げ散らして騒音をたてたりする。東スラヴにおいても類似の行動が見られ、ロシアのキキーモラも騒霊現象を引き起こす。ウクライナの亡霊は、真夜中に夜行、騎行し騒音をたてる。

皮肉な事に、こうした吸血鬼の性質を利用して、悪事を働こうとする人間がいたのも事実であった。もっとも、どちらが先であったかはここで断言する事は出来ない。セルビアの演劇活動の基礎を築いた劇作家ヨアキム・ヴーイッチの『セルビア紀行』(1828)やセルビアの文学者・民俗学者ルカ・イリッチの『スロヴォニア地方風俗』(1846)、セルビア最初の女流詩人ミリツァ・ストヤディノヴィチ=スルプキニャの『フルシュカ高原にて、1854年』という日記などには、贋吸血鬼事件に関する記述が見られる。ボスニアやヘルツェゴヴィナでは、ジプシーが住民を恐がらせる為にゴミや石を屋根に向かって投げたりもしたと考えられている。ミコノス島のヴリコラカスの事例でも、不審な放浪者が逮捕されていた。

吸血鬼が天災を起こすという伝承がある。ロシアでは水死者や自殺者が不作と悪天候を齎すと考えられた。南スラヴを見ると、セルビアでも吸血鬼は、黒雲を率いて農作物に雹を降らせる。また、伝染病も引き起こす。

目に見えないものを吸血鬼の行動に結び付けた例として、ブルガリアでは吸血鬼は死んだ動物を食べると云う。アルバニアの吸血鬼は腸を食べる、と云われる。ギリシアの吸血鬼は臓物を食らい、特に肝臓が好物であるとも云う。これは、清掃動物、乃至は臓器の腐敗が進んだ結果腹腔が破裂した死体の観察による信仰であろうと考えられる。

南スラヴではしばしば吸血鬼と人狼が混同されるが、ルーマニアのジプシーは、白い狼は吸血鬼の天敵で、彼等の警戒と凶暴性のおかげで生者の世界は吸血鬼に乗っ取られずに済んでいる、と考えているらしい。ユーゴスラヴィアのジプシー伝では、吸血鬼は最後には狼に出会い、ばらばらに引き裂かれる。また別の解釈としては、それを両者の変身と見なす事が考えられる。バーバーは狼と死体との関連は、動物が死体を漁っていた結果生まれたのではないかと考えている。 スラヴ人の間では人狼信仰が異教時代から存在しており、キリスト教普及以前は、呪術師的な長に率いられた青年戦士結社の定期的な狼への変身儀礼があったのではないかと考えられている。

清掃動物の類が死体を漁ったように、ヴェンド人の伝承ではグール(屍食鬼)は新しい墓を掘り起こして中の死体を食べると云われる。またホメロスの『イーリアス』第1巻の初めの所でギリシア人を流行病で苦しめ、疫病神として描かれたアポロンの別称(リュキオス、リュケイオス)は狼という語と関連があるとも云われている。カラスやハゲワシなどの死肉を啄ばむ、やはり清掃動物の鳥類の存在は、翼を持つ亡霊としての吸血鬼に関係しているかも知れない。

吸血鬼は変身もすると考えられている。蝶、蚊、蛙、鶏、犬、狼、馬、猫、山羊、猫、鼠、梟などの動物や、油を入れる山羊の革袋、干草の山などの無生物になる事もある。加うるに、吸血鬼は猛烈な速度で動き、自由自在に大きくなったり、小さくなったり出来るので、どんな小さな隙間からでも入り込む事が出来る。ブルガリアの吸血鬼プルーテニックは、初めの40日(或いは6ヶ月)間は火の影や山羊の革袋であるが、後受肉する。言わば第2の生を受け復活した吸血鬼は、昼間も普通の人間として振る舞い、妻帯し、子をもうける。また、昼間は犬や狼に変身し、自分の妻を襲って咬みつき、これを苦しめるとも云う。彼の肉体は、骨が軟骨の様に軟らかく、爪も無く、決して影を落とす事が無いと信じられている。類似の信仰は、セルビア、クロアチア、アルバニア、ギリシア等の南スラヴ各国にも見られる。アルバニアの場合、幽霊の様な存在から人間の形態に変化し、ギリシアでは、初めの40日間は夢魔であるが、その後はより血を好む狂暴な性質を得る。ルーマニアでは日本の四十九日のように、霊魂は死後40日の間彷徨っていると考えられている。

「40」日というのは、注意しておきたい数字である。40日、あるいは40年後に以前の状態から変化するという話は、聖書の中に数多く見られるキリスト教における特別な数字である。例えば、ノアは洪水が起こってから40日後に箱舟の窓を開き、水が引いたかを確かめる為烏と鳩を放った。使徒言行録によればモーセは神の山ホレブで天使と出会うまで40年の間放浪したし、彼は契約締結の際40日40夜山に留まった。また、イスラエル人は出エジプトから40年間荒野を彷徨ったとされる。イスラエルの王、サウル・ダビデ・ソロモンの支配はそれぞれ40年間続き、預言者エリヤは神の山ホレブに向かうまで40日40夜歩き続けた。イエスは荒野で40日間断食して悪魔から誘惑を受け、死後復活して40日の間弟子達の間に留まった。その他、カトリック教会では第二聖典とされているトビト記では、トビトが逃げてセンナケリブが殺されるまで40日たたぬ程の間だったとされているし、カトリック教会でも聖典に数えられずアポクリファとされているエズラ記(ラテン語)、あるいは第四エズラ記では、エズラが霊感を受けて語りだす言葉を口述筆記させ終わるまでにやはり40日をおいている。数え上げればきりがないが、とりわけ、イスラエル人が荒野で彷徨った40年とイエスが誘惑を受けた荒野の40日は有名でしばしば取り上げられる。

これらの中で「40」という数は、そのほとんどは事が成就するのに必要な期間として用いられている。40日、あるいは40年を過ぎた後、人間で言えば新しく生まれ変わる、一種の通過儀礼に要する期間である。こうしたユダヤ教ないしキリスト教の象徴的な数字が、吸血鬼信仰においても取り入れられた可能性は高い。蛇足であるが、宗教としては前二者と同根であるイスラム教を信仰しているヨルダンはクフル・ユーバーでも服喪の期間が40日であるというのは興味深い。「40」という数字は、四大元素の「4」と完全数である「10」から成っている。

吸血鬼の行動として忘れてはならないのが吸血である。疫病などで衰弱していく人間の姿が、少しずつ血を吸い取っていく吸血鬼の像を確立させたかもしれないが、彼等は必ずしも血として生命力を奪う訳ではない。また、吸うにしても、胸や毛穴から吸い取られてしまう事が多い。吸血鬼報告でも、吸血痕が一定しない事例を挙げた。カシューブ人の吸血鬼は左胸部を狙い、チェコ人の吸血鬼は死者の心臓を食らう。ダンツィヒでは、乳首を噛む。あるポーランドの話の夢魔ズモーラは、寝ている人の舌から血を吸う。また、ロシアの吸血鬼ウピールは心臓のあたりに小さい傷跡を残すという。

クロアチア人の吸血鬼も胸に噛みつく。ルーマニアの吸血鬼も通常心臓を狙う。ただごく稀に、両目の間を噛まれる事もある。同じくルーマニアの吸血鬼ヴルコラクは、寝ている人の二の腕から血を吸う。ブルガリア人の吸血鬼は耳から吸うとも云う。アルメニアの吸血鬼やイランのグールは足の裏から血を吸うとも云う。

広義の吸血、生命力を奪うという点で見ると、ドイツのドッペルザウガーやナハツェーラーなどは、自らの肉体や経帷子を噛む事によって家族の生命力を奪うという。吸血というよりも、どちらかといえば共感魔術に近い。

スラヴ人の吸血鬼信仰に見られる吸血は、他の民族からの借用であったと考えられており、栗原はギリシア人・ラテン系民族との接触を挙げている。また、仁賀は、ジプシーによって齎されたインドを源流とする吸血鬼信仰がバルカン諸国に影響を与えたとしている。

吸血鬼の出現の目的は吸血のみに限らない。吸血鬼もまた、家族のもとへ現れ夫婦関係を要求する――ジプシーの伝承では、男は特にその欲求が強い――と云われる。

亡霊となった死体は、墓の中で音をたてるという信仰がある。北ドイツの亡霊ナハツェーラーは舌を鳴らしたり噛んだりする。また、産褥で死んだ女性の亡霊は子供に乳を飲ませる音をたてる。先に挙げたように、自らの肉体や経帷子を噛んで音をたてる亡霊もいる。

セルビア人やジプシーの間では、吸血鬼は口から火を吐くと云う。彼等の吸血鬼は、人狼的なものや吸血鬼悪魔生成説と関わる血の詰まった袋といったモンスターじみたものが多いが、口から火を吹くというのも如何にもモンスター的、空想的な発想である。因みにボスニアの吸血鬼は鞴の形をしており、火を吐きながら転げ回るらしい。ポーランド人の吸血鬼は口から火花を出す。

吸血鬼の行動は、吸血鬼事件の流れで捉えると、人々がまず初めに突き当たる諸々の事件、厄介事である。その為、悪戯や天災のような、一見吸血鬼とは関係ないと思われるような事も吸血鬼の仕業に組み入れられていく。

死体から悪戯の証拠を見つける事は難しいが、死体の内外に存在する血液によって吸血の事実が、死体を貪る清掃動物によって変身の事実が立証されてしまう。吸血鬼は清掃動物だけでなく、多くの物に変身するが、これは戸締りをしっかりした家の中にいても被害に遭う者がいるという事実に対して考え出された説明であろう。

吸血鬼予防法

吸血鬼報告の中で言及される事は少ないが、人々は吸血鬼の被害を防ぐ為、様々な面で防御策を講じている。それは場面によって二通り、埋葬時に行われるものと日常生活の中で行われるものとに分けられる。その中でも、埋葬儀礼と結び付いた埋葬時に行われる予防法が多い。

死体が亡霊化するのを防ぐ為に、また亡霊になってしまった者を鎮める為に死体を俯せに埋葬する習慣は広く見られ、古くはケルト人の埋葬習慣にまで遡る事が出来る。例えばポーランドでは、吸血鬼の可能性のある死体に名前を書いた紙片を舌の下に入れ、俯せにして尻をシャベルで叩く。俯せ埋葬は死体が地上に這い出してくるのを防ぐだけではなく、下に向けて掘り進む様に誘導する事が出来るとも考えられている。また、死体に見つめられると命に関わるという信仰と関連する場合もある。根源的には、霊界に接近するものは何でも逆向きにしようとする、「左回り」の現象として理解される。

死体とともに物を埋める習慣もごく広く見られる。例えば、古代ギリシアにはオボロス(死体の口に入れる小額硬貨)というものがあった。この硬貨は死者がステュクスの川の渡し賃をカローンに払う為の物と云われる。また、生者が死者の遺産を受ける事に対する代償行為と解釈される事もあるが、もともとは悪霊が死体に入る事を防ぐ為の護符であったという主張もある。現代でも類似の信仰がヴリコラカスに見られる。キオスでは蝋または木綿で作った十字架を遺骸の唇に乗せたし、葬儀の礼拝中に司祭は遺体の唇に「イエス・キリストは勝つ」という言葉を記した陶片を乗せた。これなどは、キリスト教によって再解釈された習慣であろう。

陶片の使用は西プロイセンのカシューブ人にも見られる。この場合、死者が物を噛むという信仰と関連して、それを防ぐ為に行われた。硬貨や汚物を詰めたり、口を閉じさせてから芝辻の塊や歌集を勝手に開かない様にし、噛めない様にしたりする事もある。19世紀末のポメラニアでは、歌集は死者が歌える様にする為に与えたのだという解釈が報告されている。死体が経帷子や手足を噛めない様に、古代アテナイでは死体の口を縛ってしまう事もあったと考えられている。

吸血鬼は生命を求めて生者を襲うが、死者の食欲を満たす為に、ルーマニアのバトナでは埋葬後2、3日経ったら死者の親戚の者がワインとパンを墓に持って行く。ワインは墓に注ぎ、パンは死者の供養の為に通行人に与えられる。ラキアというアルコール度の高い蒸留酒を一緒に埋めてやる事もある。死者に食物を供えるという習慣は、明らかに祖霊崇拝に根差している。因みにルーマニアには、吸血鬼の墓の近くにワインのボトルを埋め、6週間後に取り出して飲めば吸血鬼に襲われないという信仰もある。またジプシーは、死者に与える為のパンとチーズを別の村に持って行き、そこに置いておけば、彼等はそちらへ誘導されると考えていた。

同じくルーマニアでは、吸血鬼化を防ぐ為に遺骸に蝋燭、硬貨、タオルを与えたと云われる。ポメラニアでは死者が天国への道を照らせる様に灯火を与えた。ブルガリアにも同じ習慣があるが、蝋燭がキリスト教の儀式などで用いる、聖なる光の象徴である事にも関連しているかもしれない。その他にも、東セルビアでは山査子で作った小さな杭を十字架と一緒に墓に入れて、遺体の吸血鬼化を防ぐ。ルーマニアとトランシルバニアでは、遺体の上に野薔薇を一枝置いておく。薔薇は様々な悪に効果があると云われ、墓の上に置いておく事もある。また遺体の亡き骸の鼻孔、耳、目に香やニンニクの鱗片を詰め、ブルガリアではキビとニンニクが同じ様に用いられていた。ギリシアでは遺体の口中に聖別されたパンを、ザクセンではレモンを入れる。バルカン地方のジプシーの中には、死者の口に羊毛を詰める者もいるという。死体の口などに物を詰めるのは、魂が入っていくか出ていくかしない為と考えられる。

吸血鬼化を防ぐ為の副葬品としてよく見られる物として、刃の鋭い物を挙げる事も出来る。特にルーマニアとハンガリーで一般的なのは鎌である。トランシルバニアでは、鎌や錫の皿を死体の膨張を防ぐ為に胃の上に置き、ともに埋める。死体の膨張を防ぐとは、取りも直さず吸血鬼化を防ぐという事を意味する。ブルガリアではキリスト教と習合して司祭が亡き骸の中央部にイコンを乗せる。またルーマニアでは、埋葬前に家の中に遺体のみを残して外出する時は、遺体の上に鎌を乗せておく。ユーゴスラヴィアの風習では、死体の首のまわりに鎌の刃があたる様に置く。もし死体が吸血鬼になって起き上がったとしても、鎌がその首を切り落とす事になるのである。ルーマニアでは、あらかじめ遺体の心臓に鎌を突き刺しておく事もある。なお、ブルガリアとマケドニアの一部では、鎌は女性とともに埋めて、死後も草刈りが出来る様にするのだという。バルカン地方でも、女性の仕事には終わりが無いと云われる。

刃の鋭い物や先の尖った物の副葬品は他にもある。古代スラヴ人の火葬後の骨壷を埋めた墓からは、鉄のナイフ、細い針、突き錐が見つかっている。この壺は逆さに埋められた物もあり、先の死体を俯せに埋葬する習慣と類似するものと考えられている。19世紀末の東プロイセンには、遺体を乗せる板の下に冷水を入れたボールを置き、体の上には錫のスプーンを乗せる習慣があった。これも死体の膨張を防ぐ副葬品がもととも考えられるし、水がある事から死体の腐敗を早める効果を狙ったか、あるいは飲み物と食事道具という事から死者に食物を与える習慣と類似のものと捉える事も出来るだろう。

尖った物は、死体の歩行防止にも用いられる。ルーマニアでは、遺体の頭と両足をイバラの枝で縛るか、頭に針を刺してから棺の中に一種のイバラを入れる。後者の場合、その後頭に、クリスマスなどの聖なる日に殺した豚の脂肪を塗っても良い。ハンガリーでは、イバラか鋸の刃の欠片を遺体とともに墓に入れる。そうすると経帷子の布が引っかかって、死体は墓から戻ってくる事が出来ないと云われる。またスラヴ人では、死体が血を吸えない様に、その舌にイバラを刺し込む。時には釘や小刀も使われた様で、そのような物が頭蓋骨に入っているのが中世の墓地から発見されている。

古代ゲルマン人は、死刑に処せられた人の墓の上に刺を刺し、カルタゴ人やローマ人も処刑せられた人の墓に刺や石を投げた。またルーマニアでは死体の帰還を防ぐ為、針を臍、若しくは心臓に刺す。或いは、真っ赤に焼いた金串や先を尖らせた杭を心臓に突き刺す。ブルガリアでも臍に灼熱した長い針を刺す。ギリシアでは、杭を打つ前に煮えたぎる油に浸す。これを棺の土の上に掛ける事もある。因みに灼熱させた物を使うのは、吸血鬼が火を恐れるという信仰に因っていて、ブルガリアでは、死体の腰部に火薬、マッチ、麻くずなどの可燃物を入れ、耳に栓をして埋葬する事もある。セルボ・クロアチアでも同様の死体を刺す慣習があるが、この意義はむしろ、吸血鬼の悪魔生成説から説明される。ダルマティア地方では、亡霊になる虞のある死体の臀部を切り、全身に針を打ち込んでいたし、東部セルビアでは死体の額か首か腰に針を刺し込んだ。ルーマニアでは、先を尖らせた杭を1~数本墓に刺し込んでおき、死体が起き上がろうとしたら刺さるようにする事もある。また、杭ではなく紡錘を使う事もある。セルビアでは、墓の上に燃えやすい物をかぶせて点火してから、古い小刀5本または山査子の刺4本を墓に刺し込む。地表から杭を打ち込み、実際に打ち貫いてしまう方法もあり、例えば、かつてジプシーは、トネリコ、山査子、ビャクシン等の木で作った棒を怪しい墓に打ちこむ習慣があった。またハンガリーのセクラ地方では、死者の帰還防止の為に、棺を墓穴に入れた後で墓に銃を撃ち込んでいた。

尖った物は死体の膨張を妨げるであろうが、東部セルビアのホモリェ地方には、死体を家から運び出す時、死者が横たわっていた場所に木の楔を打ち込み、或いは山査子の尖った枝を打ち込んで、「この枝先に葉が繁る時、ミロヴァンよ(ここで死者の名前を呼ぶ)、汝もまた蘇るべし」と叫ぶ習慣がある。これは、尖った物の効果が象徴的に残った例と言えよう。

死体が動き出すのが危険だとするならば、それを拘束しておくのは素朴な手法である。19世紀ブルガリアでは、死者を絨毯で包むという事が行われていた。11世紀のロシアから、それは既に行われていたらしい。包むという点では、魚網が使われる地域もある。この魚網は、後に述べる吸血鬼が結び目をほどく(数える)という信仰とも関わりがあるはずだ。ルーマニアでは、体を真っ直ぐにさせておく為に遺体の足を縛るが、その縄は後で切って、体の近くで処分するなりしなければならない。もしそれが盗まれて黒魔術に使われると、死体は吸血鬼になってしまうと信じられているからだ。セルビアでも、遺体が家の中に安置されている一定の期間、その手足を縛っておく事がある。一方で、結ぶと云う行為は、死者が来世に移行する妨げになるという一般信仰もある為、トランシルバニアのザクセン人は遺体の手足を縛ってあった紐も、口に結ばせてあった布切れも、埋葬前にはほどいてしまう。ヨーロッパと地中海地方では、身体を縮めた姿勢による埋葬がしばしば見られるが、この様な不自然な姿勢は、元は縛られて埋葬された事を示していたようである。

亡霊となる危険のある死体は、教会の墓地などから隔離された場所に埋葬される事が多く、十字路や郊外などに埋葬された為、夜は境界線や十字路に近づいてはいけないと云われた。もっと簡単な方法として、水葬も挙げられる。

葬儀に際して――特に高貴な人物の場合――泣き男や泣き女を雇うという風習は、世界各地で見られる。ルーマニアでは、葬儀を行う時泣き男をたくさん雇わなければならない。そうすると、死者は自分が充分愛されていたのだと感じ、平安を得る。だが東プロイセンでは、あまり生者が泣きすぎると死者が平安を得られないと云われる。ブルガリアでは、人が死にそうな時に泣いたり騒いだりしない様に勧められる。便宜上、泣き女・泣き男と言葉をあてているが、日本と異なり埋葬後も定期的に墓地へ赴き、泣きながら呪文を唱えたりする。

日本でもそうだが、葬式には喪服を着て行く。このような服喪の習慣は、やはりヨーロッパにも見られる。地域や時代によって違うが、彼等は服喪期間中、白や黒の普段とは違う色の衣服を身につけた。現在では一般に、これは死者の為の哀しみと敬意の表現と考えられているが、多くの文化では礼儀というよりもむしろ必要事であった。即ち、喪服と髪形の変化の元来の意味は、遺族をそれと見分けられない様にする点にある。死者が亡霊として戻って来ても、外観を変えていれば見分けられないだろう、という事だ。一般に吸血鬼の犠牲となりやすいのは、生前身近にいた者であるから、彼等には、亡霊から身を護るが為、喪に服する義務が必要だったのである。死者を騙すと云う意味では、セルビアで、墓地で埋葬葬儀を行う際、行きと帰りの道を別にしたり、家財を移送したりするのも同じである。また、埋葬に古い履物をはいて、スカーフに山査子をつけて臨み、帰りに履物と山査子を道に棄てて、素足で家に戻るという二つの方法を組み合わせた例もある。因みにルーマニアには、家のあらゆる道具を逆様にするという厄除けもある。

バルカン地方では、二次葬が多く見られる。セルビアではその際、骨を洗い、ぶどう酒をかける事がある。発掘は普通葬儀の数年後に行われる。腐敗しない事は彼等にとって亡霊である事の証しであるから、腐敗を助ける手段として、ルーマニアでは埋葬後7週間経ったら水差し44杯の水を死体に捧げる。

ギリシアでは、他殺者と処刑された犯罪者は、手足を切断され首に鎖を巻かれ、リトワニアでは20世紀になっても自殺者の首は斬首されていたが、スラヴ人も古くは同じ習慣を持っていたらしい。またセルビア人は、死体の歩行を防止する為に、その膝の靭帯を切断したと云われる。遺体の頭を切り落として足に乗せたり、足元に置いたりする習慣はルーマニアでよく見られる。スラヴでは、死体の小指を切断したり、犯罪者の踵か膝か足の裏を切り、首筋或いは鳩尾に釘か針か山査子の杭を打ち込んだりする事もある。

火葬も吸血鬼殺害の最終手段であるとともに、埋葬儀礼に関わる予防法の中では最も有効な手立てである。キリスト教で土葬を推奨している事以上に、この方法は非常に大量のエネルギーを必要とする為、広く普及するのは難しい。古代スラヴ人は火葬、土葬、人里離れた地域への遺棄という3種の遺体処理法を持っていた。キリスト教の影響で火葬は今日では行われていないが、その痕跡は葬儀様式の中に残っている。例えばブルガリアでは、遺体の周囲にぐるりと可燃物を置いて火をつけたり、埋葬から3日目に墓の周りを火で囲んだりする。またセルビアでは、遺体があの世の道を照らす為の蝋燭を用意し、死者が20歳を越えていれば、その蝋燭で髪を焼く。遺体とともに蝋燭を埋めるのも火葬の名残だったとも考えられている。

一見奇妙な吸血鬼予防策として、粒状物質を墓に入れたり墓地の道に撒いたりするというものがある。バルカンのマケドニア、ポーランドのカシューブ人の風習が特に有名だが、使われるのは、キビ、海の砂、向日葵、カラシの種、オート、麻の種、ニンジンの種、ヒナゲシの種などである。なお、カラシ種はイエスのカラシ種の喩えでも有名である。吸血鬼は粒を見ると集めずにいられないと考えられている。笊や網の様な細かい目のあるものにも効果があるし、ブルガリアでは機織糸にも同様の効果があるとされる。北ドイツなどの亡霊は結び目をほどく事に同じく夢中になる。なので、死者とともに網やストッキングを埋める事もある。ボヘミアのズデーテン地方では、長靴下を用いる。やはり彼等も、1年に結び目1個の割合でしかほどけない。吸血鬼を豊饒の大地母神の暗黒面と捉える平松の論では、吸血鬼の分身として穀物を撒き、吸血鬼ともども地中へと帰すという意味になる。

上に見た如く、死者の吸血鬼化を予防する方法の多くが、埋葬儀礼と関連するものであった。死者に関わる出来事であるのだから、それはむしろ当然とも言える。彼らが予防しようと努めた事態は、既に検討した吸血鬼の外見や行動と関連している。具体的には、死体の膨張や死者の徘徊である。また、悪魔生成説と結び付いた、悪霊が死体に入り込まないようにする予防法も見られた。

吸血鬼防御法

よく知られている吸血鬼防御法として、ニンニクが挙げられる。これは民間でも実際にルーマニアをはじめとする地域で今でも使われており、墓に入れたり、首にかけたり、部屋に吊るしたり、これで家のあらゆる出入り口を磨いたりして吸血鬼をはじめとした亡霊・怪物の猛威を防ぐ。東ドイツでは、トリカブトや銀製小刀をマットレスとベッドの下に置く事がある。ユーゴスラビアでは山査子の茂みの下にあった牛糞という物は、強い匂いと山査子という鋭い刺の二重の力を組み合わせた物として使われる。強い匂いの厄除けとしては、人糞を布の上に広げて、それを胸に貼り付けるというものもある。また、ギリシアではヴリコラカスの疑いのある死体を始末する際、大量の香を焚く。これは、ミコノス島のヴリコラカスの事例で紹介した通りである。強い匂いの物で対抗するのは、死体の匂いと関係があり、眼には眼をという発想のようである。恐らく、死体の腐臭自体に死を伝染する力があると考えられていたのだろう。

厄除けの効果があるとされる物として、ルーマニアでは、妊婦に塩を食べさせる。塩を棺に入れて悪霊を防ぐ予防法もあるが、塩の防腐作用と関係があったと思われる。他にも、馬蹄を家の中に置いたりドアに掛けたりする事も、魔女や妖術師に対する防御と合わせてよく行われるし、ルーマニアでは、副葬品として先に挙げた蝋燭を灯す事によって厄除けとなす事もある。

山査子やイバラの様な尖った物・鋭い物が吸血鬼予防法として使われていた事は既に述べたが、これらは防御法として枕の下に置いたり、家の敷居に置いたりする事もある。セルビアでは木製十字架を戸口に付けておけば、同じ効果があるらしい。また夜墓地に行く時は、十字を切っていれば吸血鬼は立ち往生するとも信じられているし、家の戸にタールで十字を描いても同様の効果が得られる。十字架はキリスト教の影響であるが、元来キリスト教は偶像崇拝を禁ずるものであったので、異民族を教化する際に習合していったものと推測される。また、平松によれば吸血鬼が十字架を恐れるのは、十字路の魔力に関係して、十字架そのものに意味があるのではなく、それを見てそこが十字路であると思うからだという。また、十字架は象徴的な男根であるとする。葡萄畑やオリーブの栽培林にいると吸血鬼に襲われずに済むというのは、葡萄やオリーブがキリスト教のシンボルである事に由来している。

アルノルト・パウル事件の中でも語られている通り、吸血鬼の血や墓の土は吸血鬼除けになると信じられていた。ポメラニアでは、経帷子の一部を吸血鬼の血に浸し、その血をブランデーに溶かして飲めば吸血鬼に襲われないと云われる。先のルーマニアのワインも原理的には同じである。

吸血鬼の予防・防御・殺害法は、対吸血鬼という観点から考えられた方法であり、似通った信仰が多い。また、魔除けという意味では吸血鬼に限らないものも多く見られる。魔除けは殺害ではなく、実際的な効果が期待されるというよりも心理的な安心を得るという側面が大きい。であるから、実際的な方法に縛られず、より象徴化しやすく、また他の信仰の神聖な象徴を取り入れやすいと考えられる。十字架で死体を物理的に破壊する事は難しいが、魔除けとしてならば比較的受け入れやすかっただろう。

吸血鬼探索法

普通、吸血鬼は墓地に葬られた死体である。死体の山から目的の死体を探すのはかなり困難な作業である。前章で紹介した吸血鬼事件では、スケープゴートとなる死者は墓が暴かれる前に予め目星がつけられていた。しかし、特に心当たりがなければ、(全ての墓を暴く訳にはいかない以上)何らかの特殊な手段が必要になってくる。

こうした探索を行うにあたって、特別な日を定めている場合がある。例えばギリシアを含む南スラヴの多くの地方では、吸血鬼が墓の中にいなくてはならないのは神聖な土曜だけで、その日が吸血鬼を殺す、決まった日とされている。セルボ・クロアチアでは、土曜日に生まれた人は吸血鬼を見て殺す事が出来ると云われる。マケドニアでは、新月の後の最初の水曜日に生まれた者が同じように云われる。安息日に吸血鬼が墓で休むというのは、キリスト教の影響であろう。

ユーゴスラヴィアでは吸血鬼を探す為に、墓の周囲に灰を撒いておき、後で足跡や経帷子の汚れを調べる。ウクライナでは、代わりに塩を使う。馬を引いて墓地の中を歩き回り、墓を踏み越えさせる時尻ごみするなら、その墓は吸血鬼の物とも云われる。ただし、ジプシーは、種馬に墓を跳び越えさせると吸血鬼は出て来られなくなると信じている。アルバニア人はその際白い雄馬を使い、他では黒馬を使う地域もあるが、何にしても全身一色の馬でなくてはならない。童貞の少年を乗せなければならず、一度もつまずいた事の無い馬や交尾をした事の無い馬でなければならない事もある。栗原によれば、馬は古代から神々の使いであり、霊能力を持つと考えられていた。因みに馬以外の動物が感知する事もある。黒い雄鶏を墓地に放ち、それが塒に選んだ墓は吸血鬼の墓とされる。ユーゴスラヴィアのある地方のムスリムのジプシーは、犬が吠えている村には吸血鬼はおらず、犬がしんとしているならば吸血鬼が来ている、と信じている。またセルビア人やジプシーの間では、吸血鬼は黒い犬や四つ目の犬(目の上に斑点のある犬)を恐れるとも信じられている。

墓の状態でも吸血鬼のものはそれと知れる。バルカンでは、墓に穴が空いている場合、吸血鬼が野鼠の姿でそこから出入りしている証拠と考えられた。十字架が真っ直ぐ立っていなかったり、へこんだりしている墓も吸血鬼の物である。要するに、吸血鬼が墓を出入りしていると思われる証拠があれば良い。

亡霊の墓の場合、青い火や青い光がその目印になる事もある。青い光はヨーロッパの伝統では、しばしばと霊魂と解釈されるが、ゲーテの『ファウスト』でモチーフとなったように、青い光が地面に埋められた宝を示すと云われる事もある。宝とは高価な副葬品の事であろう。

前述した土曜日に生まれた人の如く、吸血鬼は或る特定の人にしか見えないとされる事もある。ユーゴスラヴィアのムスリムのジプシーの間では、土曜日に生まれた男と女の双子にズボン下とシャツを裏返しに着せると、彼等には吸血鬼が見える様になると信じられている。また吸血鬼の息子も吸血鬼を見る事が出来る。彼等は生者と吸血鬼との間に生まれた者で、セルビアやダルマティア地方では、ヴァムピーロヴィッチと呼ばれる。生涯悪臭を放ち、骨無し、歯無しの奇形児だが、彼のみが吸血鬼を見る事が出来、また殺す事が出来ると信じられている。所謂ヴァンパイアハンターであるが、類似の存在はブルガリアやアルバニア、アロムン族の間などでも見られる。アロムン族のヴァンパイアハンターは少し他のそれとは違い、髪と肌の色が黄色っぽいと云われる。彼等は吸血鬼を見ることが出来、墓の外でそれを発見した場合射殺し、墓の中に発見した場合は生石灰を用いて殺したらしい。ジプシーにも目に見えない吸血鬼と吸血鬼の子のヴァンパイアハンターがいるが、一般の人でも、手を腰に当ててその下から覗いたり、ヴァンパイハンターのシャツの袖を通したりすると吸血鬼が見えると云う。但し吸血鬼を見た者は、3年マラリアを病み死んでしまう。またアルバニアのペルレペには、人狼の子孫と云われる、吸血鬼調伏専門家の一族が住んでいた。ギリシアでは、吸血鬼の子は吸血鬼を扱う特別な能力を持つとされており、テッサリアには、2・3代前に吸血鬼を先祖に持つ家族が住んでいると云う。一般にヴァンパイアハンターの吸血鬼狩りの方法は、笛を吹いたり、タンバリンを鳴らしたり、走り回ったり、目に見えない吸血鬼と戦ったりという儀式がかったものである。この様な儀式は、ユーゴスラヴィアなどで今世紀中頃まで行われていたらしい。

他のヴァンパイアハンターも幾つか挙げておこう。運命的に吸血鬼になるとされる者として赤い羊膜を持って生まれた子を挙げたが、スロバニアやイストリア地方のスラヴ人の間では、白い羊膜をつけて生まれてきた子供、クル-スニックは、赤い羊膜をつけて生まれてきた吸血鬼達と、ほとんど宿命的に戦う事になっている。彼等は自分の羊膜の一片を左の脇につけるか、粉末にして液体に溶かして飲んでおかないと、吸血鬼との戦いに負けてしまう。クルースニックは、生前は悪い呪術師と敵対する善い呪術師で、人々を呪法から解放し、病を癒し、死後幽鬼となって吸血鬼と戦うと考えられているが、生前から吸血鬼を殺すとも云われ、その場合、眠っている間に自分の肉体を抜け出し、黒い蝿、犬、馬、牛などの形をとって十字路で吸血鬼と戦う。クルースニックは珍しい存在とも云われるし、吸血鬼一人につき必ず一人のクルースニックがいるとも云われるが、決闘においては必ずクルースニックが勝つと信じられている。

ツルナ・ゴーラやヘルツェゴヴィナでは、赤い羊膜を持って生まれた子はヴィエドゴニャと云われるヴァンパイアハンターになる。これはある意味「目には目を」の思考法だが、その為彼等は死後吸血鬼になる可能性もあり、ヴーク・カラジッチによると「ヴィエドゴニャと思われていた人が死ぬと、その爪の下に山査子の刺をさし、ナイフでアキレス腱を切る。吸血鬼になって墓から出てくるといけないから」だそうである。彼等も寝ている間に魂が抜け出るタイプのヴァンパイアハンターである。

同じくツルナ・ゴーラやヘルツェゴヴィナ、ボスニアでは白い羊膜を持った子はズドゥハチと云われ、やはり眠っている間に肉体を離れ、豊作をめぐって吸血鬼や悪霊などと戦う。しかし前の者達とは違い、もともとは地域毎に存在した豊饒の守護霊が変化したものではないかと考えられている。この霊達は互いに闘い、勝者の領域には豊作がもたらされ、敗者の領域には雹や霰が降る。歴史上の英雄が民間伝承によってズドゥハチとされているのも、恐らくここに要因があると考えられている。因みに、異能者達の「豊饒をめぐる夜の闘い」というモチーフは、アルバニアやハンガリー、リヴォニアなど各地で見られるモチーフでもある。

また、12世紀に成立したイスラムの一派タリカー派の信者はダルヴィーシュというが、彼等はシシュと呼ばれる先を尖らせた杖や先端に小さな斧の付いた長い棒などの独特な道具を持ち歩いていた為か、悪霊や屍鬼に対抗する力を持っていると信じられる様になった。

ヴァンパイアハンターの多くが、吸血鬼になる原因で見た、不可避の運命的な要素によってヴァンパイアハンターとなる。そして、彼らは夢魔か呪術師のように魂だけが離れるというような吸血鬼的一面を持っていたり、もっと直截に吸血鬼の子であったりする。つまり、吸血鬼とヴァンパイアハンターは表裏一体の存在であるという言い方が出来るだろう。

吸血鬼殺害法

吸血鬼事件は吸血鬼の殺害によって終わる。神殺し、王殺しはフレイザーも扱った重要なモチーフである。吸血鬼事件は一連の騒動としてみると暴徒と化した民衆によって死体が蹂躙されたような印象を受けるが、殺害法の中には象徴的な要素も散見される。

杭で刺し貫く事は予防法でも見たようにしばしば取られる手段である。尖った物や鋭い物が吸血鬼に有効である事は、バーバーによると「死体の膨張を妨げる」という物理的な意味と「死体を墓に釘付けにしておく」という呪術的な意味とがあり、後者の意味では、殺害法というよりも予防法に近く、根本的な解決にはなっていない。バルカン・スラヴの民衆は、古くは、杭打ちでも吸血鬼を殺す事は出来ないと信じていたらしい。また、平松の論に則れば、杭は十字架と同じく魔を攘う象徴的な男根という事になるだろう。

杭に使う材料が限定される事も多い。例えば、ロシア、バルト海地方ではトネリコを使う。また、キリストの十字架を作るのにも使われるポプラを使う事もある。これなどは、キリスト教によって再解釈された信仰であろう。シュレージエンでは、しばしばオークの木を使う。セルビアでは山査子を使うが、山査子は棘のある樹である。山査子は、疫病・蛇除けとしても知られ、ボスニアでは、悪魔は山査子の樹に引っ掛かるとも云われる。ノヴォパザルスキ・サンザクに住むムスリムのジプシーは野バラの木を使う。「山査子の杭」を指す語 glogovac は、アポリア・クラティギという蝶の一種の名でもある。バルカンでは、霊が蝶や蛾の姿をとるとする信仰があったようで、杭打ちによって魂を留めるという意味があったようだ。またロシアの吸血鬼ウピールを殺すには、1打ちで杭を打ち込まなければならず、2撃目を加えると甦ってしまうという。ルーマニアでも、杭は一気に死体の心臓に突き通されなければならない。

杭で打つ事には象徴的・呪術的な意味合いもあるが、単純に殺してしまうようなやり方も取られる。そういう意味では、頭に釘を打っても良い。またスタリ・ラスに住む正教信徒のジプシーは、刺で突くのと同様、よく切れる小刀も有効であると考えている。アドリア海沿岸地方やアルバニアでは、司祭に聖水をかけてもらった短刀が使われる。杭を刺す場合一般的には心臓だが、ロシアや北ドイツでは口を、北東セルビアでは胃を刺し貫く事もある。

亡霊に杭を打って殺すというのが一番多いのは南スラヴで、ギリシア人はむしろ焼却を好み、ロシア人は人の住まない地域や水中に遺棄したようである。また、ドイツ人や西スラヴ人は斬首を好んだ。即ち、墓を掘る為のシャベルで頭を切り落とし、それを足元か臀部の後ろ――切り口の近くに置くと再生する事があるらしい――に置く。時にはゴミを並べて、体の他の部分から隔てる。その際吹き出てくる血は、前節で見たように厄除けとなる事もあるが、危険だとする地方もある。例えば、ポズナイ地方では鋤で亡霊の首を斬る時、血が飛ばない様に土をかけて置き、ユーゴスラヴィアのジプシーは吸血鬼に杭を打つ前に、その体に獣の皮か布をかぶせる。遺体の心臓を摘出する事も広く見られ、1874年パリに住んでいたルーマニアの貴族は、自分が死んだらそのような処置を行ってもらう事を提案した。

ロシアで死体が人里離れた地域や水中に遺棄されたのは、ロシアの吸血鬼ウピールが旱魃を起こすと信じられていた事に由来するらしい。旱魃を終わらせる為に遺体に水を掛ける事も行われた様で、遺体を水中に遺棄するのも目的は近いと考えられる。ロシアでは霊魂は死後に水を求めると云われ、死者に水浴用の水が供えられる。

水と死者の関連は色々なところで語られるが、吸血鬼で見てみると、セルビアやジプシーの吸血鬼の中には、好んで水車小屋に現れる者がいる。反対に、亡霊は水を渡れないとする信仰もある。ギリシアでは吸血鬼を島流しにするし、ジプシーやセルビア人、アルバニア人は、吸血鬼の左の靴下に頭の部分の墓土を入れ、村境の外に棄ててそれを取りに行かせ、吸血鬼を溺れさせてしまう。ミコノス島のヴリコラカスの火葬は別の島で行われていた。

死者が出た時に水を忌む習慣には死の感染という観念が含まれているようだが、水が死者の帰還と関係する場合もあるらしい。例えば19世紀の東プロイセンでは、遺体を洗った水は埋葬の日まで保存しておかなければならず、それより早く捨てると死者は安らぎを得られないと信じられていた。

吸血鬼の殺害法として、明らかに他の信仰と混淆しているものもある。セルビアの伝承では、十字架の描かれた銀硬貨を溶かして作った弾丸で吸血鬼を撃ち殺す。銀は人狼に対する武器として有名である。しかし、銀は民衆にとっては高価だったので、銃を使う場合、ただ撃つだけで十分効果があった。

様々な方法を挙げたが、これらは一つが効かなければ別のものを試していくし、いくつも同時に行われる事が多かった。もっとも有効なのは火葬で、他の方法を満足するまで試していき、芳しい結果があげられなかった場合用いられる。火葬は大量のエネルギーを使うので、最終手段なのだろう。古代ローマでは火葬は普通、貴族のものだったし、バルカン半島とスラヴ地方では、火葬は戦士と裕福な者または有力者に行われた。

殺害法の中では象徴的・呪術的方法が取られる一方で、最終的には死体を排除する事が最も有効な手段である。ミコノス島のヴリコラカスは様々な手段が試された後、最後には島流しの火葬に付された。吸血鬼事件として見てみると、スケープゴートとなった死体は人々の不安を静める為に何らかの方法で殺害される。しかし、それでも解決されぬ場合、人々は殺害方法が適切でなかったと判断し、より確実な方法へと進んでいくのである。火葬や遺棄は、不安の源である死体を生者の領域から遠ざけるという意味ではもっとも過激な手段であり、実際的な手段ではそれ以上死体に手を加える事が出来ない程のものである。死者の殺害というと、儀式的にも見えるが、吸血鬼事件の下敷きとなる死や日常生活を脅かす厄介事への不安はより切迫したものであり、その為、殺害法は象徴的な方法に留まらず、より実際的な殺害が求められるのであろう。

聖書における血

スラヴ人の吸血鬼に見られる吸血のモチーフが他からの借用であったという説を仮に受け入れてみたとしても、なお更にそれがキリスト教文化と習合するにあたって、吸血のモチーフの土台となる血液に対する観念が、キリスト教にとっては全くの異教の信仰であったか、それともキリスト教の教義に従って再解釈されたのか、という問題が残る。本章では、キリスト教で言うところの旧新約聖書における血の記述を取り上げて、聖書の中でどのように血液が扱われているのかを検討する。

旧新約聖書における血の扱い
扱い 該当箇所
復讐 創4・10、民35・33、士9・24、エレ51・35、エゼ35・6、二マカ8・3、エズ・ラ1・32、黙19・2
生命 創9・4、レビ3・17、7・26-27、17・10-11、申12・16、12・23、15・23、サム上14・32、サム下23・17、代上11・19、知12・5、使15・20、15・29
穢れ レビ12・2、15・19、15・25、民35・33、代上22・8、イザ1・15、4・4、エゼ22・3、一マカ1・37、二マカ5・16、エレ・手28、スザ46、マタ9・20、27・4-8、27・24-25
契約と贖い 出4・26、12・13、レビ17・11、マタ26・28、ヨハ6・54、ロマ3・25、5・9、エフェ2・13、コロ1・20、ヘブ9・12、9・20、一ヨハ1・7、黙5・9、7・14
災い 出7・17、ヨエ3・3-4、エズ・ラ5・5、15・58、使2・19-20、黙8・7、11・6、16・3、16・4

上表では、聖書における血の扱われ方を5種に分類し、該当箇所を示した。項目毎に説明する。

第1の「復讐」とは、流された血に対して何らかの復讐が行われる、という意味合いで使われている箇所である。即ち、殺人に対する復讐であり、殺人が流された血によって象徴されている。復讐は人が行う場合もあれば、神が行う場合もある。

初めの創世記4章10節では、弟のアベルを殺したカインに対して神が何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。と述べ、この殺人によってカインは神によって呪われる事になる。この箇所については単純に復讐を示しているとも判断しかねる。というのは、この兄弟殺しには、古代バビロニアに伝わる新年祭の逃亡司祭のモチーフがあるという説も提出されているからである。この場合、アベルが殺されたのは農作物の不作に対する償いの為であり、祭儀的行為として殺されたという事になる。カインは追放時、迫害者から身を守る為に神から「しるし」を与えられる。生贄を殺し血で穢れた司祭は清められるまでの間共同体を離れていた。この「しるし」は、その司祭が逃亡期間中身の保護の為につけていた「しるし」であろうと解釈されている。もしこの逃亡司祭説を取るならば、ここでの血はむしろ「穢れ」の項目に入れられるべきである。

共同体の成員に対して行われた殺人に対する復讐、所謂「血の復讐」という観念は部族社会で一般的な慣習で、ユダヤ人と同じくセム系のアラブ人にも見られる。部族社会の中では、部族の成員に危害が加えられた場合、その部族全体を敵に回す事になる。こうした復讐の原理が抑止力として働き、中央政権のない部族社会において、一定の秩序が保たれていた。

第2の「生命」とは、血=生命であると説かれている箇所である。血液が大量に流れれば人や動物が死ぬ事は、近代医学の知識がない環境でも観察によって明らかであり、血が生命と関連するという思想は比較的理解しやすい。

聖書の中では、しばしば血が生命である事が食物禁忌と同時に語られる。律法のレビ記では、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。と述べられている。また続けて、わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。とされている。これは、第4に挙げた「契約と贖い」の血である。ここでは、血がその生命によって贖いの儀式に用いられるから、それを食べて(飲んで)はいけない、という言い方がされている。本源的に公衆衛生を守る為に規定された食物禁忌と儀式の中で用いられた血液とが結び付けられているのである。なお、ユダヤ人の食物禁忌について、歴史学者エルンスト・ルナンは、悪魔が特に飢えていると考えられていたので、血を抜いていない肉を食べると悪魔が体内に入ってくると恐れられていたのだと述べている。

血が生命であるという考え方は、生者から血液を奪い死後の生を永らえる吸血鬼の観念の論拠となりえただろうと思われる。そして、吸血鬼は血液を奪うと同時に生命を奪う、死の象徴となる。

第3の「穢れ」は、血が穢れたものであるという考えであり、専ら経血・病気の血・殺人の血について述べられたものである。生命の源としての血はむしろ聖なるものであるが、病気や殺人といった災いと関連した血液は、不浄なものとして扱われる。殺人については、第1の「復讐」で述べた血の復讐とも関係するだろう。聖書の中では、楽園追放の際、イヴは犯した罪に対する罰として、「はらみの苦しみ」を大きなものにされた。これと関連して、経血も穢れたものとして扱われ、罪の観念が付きまとう。

吸血鬼は生命であるところの血液を奪い、殺人を行う。吸血行為には生命を奪うという罪と穢れの両方が内在されそうである。

第4の「契約と贖い」は、「生命」の項でも述べた贖罪の儀式にまつわるものである。また、割礼――割礼は人と神の契約のしるしである――で流される血についての言及もある。新約では、専らイエスの死と関連して贖罪の血という観念が使用される。

ヨハネによる福音書6章54節では、イエスがわたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。と述べている。言うまでもなく、ここで述べられている肉や血というのは比喩であるけれども、文字通りに受け取る事によって異教の儀式と混同される虞があり、事実初期キリスト教徒には人肉食の疑いがかけられる事もあった。その為、教父らはこの記述の解釈に対して慎重な姿勢をとった。しかし、中世以降民衆の間では贖罪の思想の誤った解釈が広まり、血液が万病克服や回春の為に用いられた。

最後の「災い」とは、神の裁きや奇跡によって川の水が血に変えられたり、月が血に変わったり、血の混じった雹が降りかかったりすると云われる箇所である。神の人知を越えた力を表現していると思われるが、何故血でなければなかったか説明するのは難しい。血に対して抱かれていた、前述した穢れ観や生命であるという意識がもとになっているかも知れない。血が生命であるからというのはつまり、生命を与える事が出来るのは神のみであり、奇跡に血をまじえる事によってその奇跡が神の業である事を暗に示しているのではないかという解釈である。ひとまずここでは、災いに関係する血を別の項目として分類しておいた。

以上のように、聖書の中で血液は特別な意味が与えられており、キリスト教にとっても吸血行為が全く解釈出来ない概念というわけではなかった。その中でもとりわけ、血が生命であるという観念や血の穢れ、血による贖罪という観念は、生者から血を奪い死に至らしめる吸血鬼という信仰のキリスト教的論拠となりうるものであったと思われる。

吸血鬼論争

アルノルト・パウル事件を伝えるヨハン・フルッヒンガーによる調書、『見聞録』(1732)は西欧の支配階級の興味を誘い、先のペーター・プロゴヨヴィッチ事件とともに多くの議論を巻き起こした。本章では、吸血鬼事件の最後、「評価」の段階を、18世紀の吸血鬼論を中心に検討する。

18世紀前後に見られる吸血鬼論は、吸血鬼報告を受けて、東欧民衆に残る吸血鬼信仰に西欧の人間が合理的な解釈を与えるという構図で展開した。種村はこれを、近代合理主義と野蛮で荒々しい中世の神秘主義との間の、あるいは科学と迷信との間の、最後の決戦と図式化している。吸血鬼が迷信、信仰の世界に属する観念である事はひとまず良しとして、では当時の科学的な見解とはいかなるものであったのだろうか。また、そうした主張はどのような人々が行ったのか。更に、そうした科学の立場からの主張と別の立場を表明した者はいなかったのだろうか。

18世紀以前の吸血鬼に関係する研究としては、ドイツの神学者フィリップ・ロールの『死者が墓の中で物をかじることについての歴史的哲学的考察』(1679)がある。これは、死者が墓の中で、経帷子や食べ物、自分の身体などを食べる現象、蘇った死者を扱っている。ロールはこれを悪魔が死体に取り付いたせいであるとした。悪魔は肉体を離れた霊魂には手を出し得ない、それ故死骸に奇異を現して快を慰る。また、必ズヤ悪魔ノ家隷ナル巫女ノ是ヲ助クルもあった。一方で、18世紀のドイツの神学者であるミハエル・ランフティウスは『墓の中で物を噛んだり、食らったりする死者について』(1728)、『墓の中で噛んだり食べたりする死者に関する論文』(1734)において、ローアの説を退け、悪魔が死者に取り憑く事はないとし、ペストや清掃動物、特殊な土壌といった環境から蘇る吸血鬼信仰を説明しようとした。

イエズス会司祭フランソワ・リシャールはギリシアのサントリーニ島の吸血鬼信仰について、『アルキベラーゴのサントリーニ島で起きたことについて』(1657)で述べ、吸血鬼はサタンや悪霊の道具であると主張した。ギリシアの著述家レオ・アレティウスは『ギリシア迷信論』(1645)の中でヴリコラカスの報告を行っている。

18世紀の代表的な研究として、ベネディクト修道会士のドン・オーギュスタン・カルメ『精霊示現、ならびに、ハンガリー、モラヴィア、等の吸血鬼あるいは蘇える死者に関する論考』(1746)がある。カルメは本書の中で、多くの吸血鬼報告を挙げて、魔術的にではなく早すぎた埋葬から吸血鬼信仰を説明しようとしている。その一方で、墓の中で租借する死者を明らかな作り話と断じ、悪魔が吸血鬼の身体を微粒子化し霊化するといった主張を証拠も信憑性もないものと批判した。これは科学による宗教の否定ではなく、呪術や魔術といった悪魔の力の否定であり、それ故に死者を復活させることが出来るのは神のみであると結論したのである。

教皇ベネディクト14世は、ラムベルティーニの俗名で『科学の光に照らして見た吸血鬼』(1732)という小論を著した。この教皇は、ヴォルテール崇拝者で自然科学愛好者であった。彼は教皇在位中、東欧地域から寄せられる吸血鬼の問題、即ち、民衆の中でしばしば起きる吸血鬼騒動に教会としていかに対処すべきかという問題に直面し当惑させられたようである。ラムベルティーニとしては、あきらかに吸血鬼の蘇生やその仕業とされている諸行為は想像力や不安や恐怖の産物であるとしながらも、教皇としては一部の悪徳僧を槍玉に挙げて、迷信を食い物にして悪魔祓いやミサをあげて私腹を肥やす司祭達を非難した。また、ダルジャン侯爵も『ユダヤ人の手紙』(1738)で同様の不良司祭説を展開していた。

以上に挙げた人々の多くがローマ・カトリックの聖職者達であり、それ故、論は教権擁護へ傾きがちである。しかし一方で、啓蒙思想家ヴォルテールは、何ということであろうか!わが18世紀に吸血鬼がまだ実在しているとは!と述べ、吸血鬼信仰を真面目に取り合っている教会と特権階級に対する非難を行っている。この中では、カルメ師も引き合いに出されている。ヴォルテールの吸血鬼論は、資料としてはカルメやダルジャン侯爵の報告を借用している。また、カール・フォン・クノプラウホ・ツゥ・ハッツバッハは『啓蒙家ならびに非啓蒙家のための手帖』(1791)でヴォルテールを鵜呑みにして、カルメが死者復活の可能性の証左を認めているとして、教権を非難している。彼らの吸血鬼論は、吸血鬼現象の解明それ自体には重きが置かれず、啓蒙思想家として教権や特権階級、あるいは非合理的な迷信を否定する事が第1であった。種村はむしろ科学を絶対視した啓蒙主義者の方がその点では観念的であったと評している。

大勢として、18世紀の研究では吸血鬼の存在は科学的な立場から否定されたように見えるが、民衆の間でも同様に魔術や呪術、悪魔による死者の蘇生の可能性が否定されたとは限らない。18世紀においても、トラニ大僧正ジュゼッペ・ダヴァンツァンティは『吸血鬼論』(1744)で吸血鬼は悪魔によって生じると主張している。

18世紀の吸血鬼論争は一種の社会的ムーブメントで、その後、西欧世界では、民間信仰としての吸血鬼からフィクションの吸血鬼へと興味は移っていく。19世紀、後期ロマン派のカトリック主義者ヨーゼフ・フォン・ゲーレスは『吸血鬼とその犠牲者』(1840)で詩的価値として吸血鬼信仰を擁護した。即ち、死後、吸血鬼は墓の中にいながら生者の生命力を奪い、「植物性動物」としての生を送るというのである。これは当然非難されたが、ゲーレスは詩的価値として吸血鬼信仰を擁護しているのであって、土俗の民間信仰の問題とは自ずから異なる。

さて、18世紀前後の吸血鬼論を主だったものについて述べてきた。当時の科学的な立場から提出された答えは、吸血鬼は早すぎた埋葬やペスト、民衆の妄想によって生まれた存在であり、また一部の司祭達はそうした迷信を食い物にしているのだといった主張であった。積極的に吸血鬼問題に取り組み上のような主張を展開した人々の中には、多くのローマ・カトリック聖職者が含まれる。が、一方で、同じ聖職者の中でも吸血鬼の悪魔生成説を唱えるものもいた。

キリスト教の教義における大前提として、魂を復活させる事が出来るのは神のみである。それ故、聖職者の主張は何らかの存在、多くは悪魔が死体を操っているか、それとも迷信であるとするかの2つが主なものとなってくる。前者はリシャールやロール、ダヴァンツァンティらであり、後者はランフティウス、ラムベルディーニ、カルメらである。

東欧では吸血鬼信仰が、異教の要素でありながらキリスト教に受け入れられてきた。ラムベルディーニらが指摘した不良司祭の存在、教会が吸血鬼信仰を金銭や教権擁護の為に利用したという説が実際どれだけ真実であったかは確認出来ないが、少なくとも正教会の司祭らは吸血鬼信仰に悩まされ、しばしば容認せざるを得なかったと考えられる。吸血鬼報告の中で登場する司祭らも、住民の主張する吸血鬼の存在を否定しさる事は出来ず、ミコノス島の事例では事態の解決為にミサを挙げる事さえしていた。そもそも、ラムベルディーニが教皇としての立場ではなく、一私人として吸血鬼を否定したのも、当時東欧で吸血鬼信仰が非常にデリケートな問題であった事を示していると思われる。

結語

本稿では18世紀の事例を中心に、吸血鬼信仰及び吸血鬼論争を吸血鬼事件という連続の中で考察した。ここで言う吸血鬼事件は、(予防・防御) ⇒ 事件発生 ⇒ (予防・防御) ⇒ 原因の特定 ⇒ 探索 ⇒ 殺害 ⇒ 記録 ⇒ 評価 という一連の流れとして定義された。

吸血鬼を指す語として西欧で借用された vampire 系列の語は、その起源をスラヴ諸語の中に求められる事が多い。しかしながら、吸血行為と蘇る死体という概念自体は、必ずしもスラヴ起源とは考えられず、特に吸血のモチーフは外部から持ち込まれた可能性が高くなっている。

18世紀に多く提出された東欧の吸血鬼報告に現れる典型的な吸血鬼像は、厄介事に結び付けられたスケープゴートとしての性格を与えられた死体であり、その為その行動は死にまつわる事の他に多様な悪戯をも成し得ると信じられた。対象が死体である為、吸血鬼信仰の中には埋葬儀礼にまつわるものが多く見られる。死者が蘇り、生者に危害を加えるというモチーフは、埋葬儀礼や定期供養の欠如によって親類縁者に害を齎す祖霊崇拝の影響が強いと思われる。

吸血鬼事件の中で死者が確かに出現したと言えるのは、「殺害」の段階である。それまでの段階で確実に確認出来るのは不慮の死が続いたり、悪戯が頻発したりといった厄介事だけであった。厄介事の原因として、例えば連続した死であれば最初に死んだ者がそれらの死の齎し手として疑われたし、被害者が親類縁者を中心としているのであれば過去に死んだ者が疑われた。民間信仰の中で吸血鬼化の原因は色々に考えられているが、死体が吸血鬼とされるのは事件が発生した後、つまり後付けの論理であり、無数に増えていく可能性を秘めている。だが一方で、吸血鬼報告の中で吸血鬼化の原因が語られる事は少ない。人々にとってより重要だったのは、死体が何故吸血鬼になったよりも、死体に吸血鬼化の徴を認め殺害する事であったのである。

吸血鬼の外見的特徴と考えられているものの多くが死体の実際の観察に基づいているが、現在では正常な腐敗の一過程であると考えられている。人々は偶然死体を発見したのではなく、死体が吸血鬼である事を確認する為に墓を暴いたので、彼らの想定していない状態を示す死体は吸血鬼と考えられた。

死体の外見とともに人々にとって重要であった「殺害」の段階において、一つの方法を試し事態がなお解決しない場合、更に別の方法を試された。また、死体が完全に排除された後も事態がやまぬ場合、吸血鬼に吸血された者も吸血鬼になる、つまり吸血鬼の増殖として説明されたりした。殺害方法は象徴的なものもあるが、この段階では死体そのものが目の前にある為に、より直接的な殺害が事態を確実に解決する決め手となった。具体的には死体を共同体から物理的に排除する事であり、火葬や島流し、遠隔地への遺棄といった方法が取られた。

異教的な要素の強い吸血鬼信仰は、東欧ではキリスト教と習合し、死者の復活や吸血行為がキリスト教の枠組みの中で再解釈されたし、キリスト教文化の中にもそれを受け入れる素地があった。吸血鬼の被害を防ぐ魔除けの類の中に、キリスト教のモチーフは様々に取り入れられた。また、吸血鬼化の原因とキリスト教の戒律が結び付けられている。しかし、「殺害」の段階ではより直接的な方法、不安の源である死体を確実に排除する方法が好まれ、ミサなどが期待した効果を挙げられない事もあった。

「評価」の段階では、18世紀の吸血鬼論者の中にはローマ・カトリック聖職者が多く存在した。彼らの主張は主として吸血鬼の悪魔生成説と迷信説とに分けられる。しかし、迷信説によって科学的な立場から吸血鬼を否定する一方で、東欧の民衆が吸血鬼を信じている事も確かであったし、現地の司祭達も――吸血鬼信仰を教権や金銭的利益の為に利用したかどうかは確言出来ないにしても――それらを容認せざるを得ない状況であった。ラムベルディーニも教皇として吸血鬼信仰を公に否定する事は避け、18世紀の吸血鬼論争、吸血鬼事件における「評価」の段階は、事件の現場から離れた外部の人々によって行われるという形を取ったのであった。

参考

参考文献

邦語文献のみ挙げる。

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参考URL

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